『健康の友』3月号の紙面上で、淀川区の田川東公園にある「樋尻大橋」の石碑について、由来をご存知の方はおられませんか? と呼びかけたところ、東淀川区にお住まいの会員のYさんが「北中島の歴史を探る会」にて話題にしてくださり、「会」の藤村さんがお調べくださいました。
今月は、その資料をもとにした「樋尻大橋」についてのお話からはじめます。
樋尻大橋

この田川東公園の北側では、1925年2月の着工で神津組合耕地整備事業に伴う農業水路が整備されました。そして、その水路にかかっていたのが「樋尻大橋」なのです。1931年や1935年の地図にも橋の名前が記されています。この橋はコンクリート製で、地元の方には自慢の橋だったのでしょう。「大橋」と名付けた心持が想像されます。
水路は1950~60年代には埋め立てられて道路となったものの、何らかの経緯で近所の田川東公園に橋の名を記した欄干だけが残されたということです。ちなみに実際の橋の位置は十三筋のすぐ東側であり、公園とは100mほど離れた位置にあったようです。
長楽寺案内碑

さて、この田川東公園の近くの道にも、また不思議な石碑が建っています。田川北1丁目7のY字路に建つ「長楽寺案内碑」という石碑です。周囲を見回してもお寺の気配はなし。どこにあるお寺の案内なのだろう…と思って調べると、三津屋南2―4―4にありました。その名もまさしく「長楽寺」。かつてはこの案
内碑を右斜め方向に進むと長楽寺だったのですが、1918年に北方貨物線が出来た影響で分断され、今はその道筋に踏切すらないため、大きく遠回りしないとたどり着けなくなってしまいました。
開創は645年と古く、長きにわたる荒廃ののち、慶長年間や江戸時代に復興されたものの、太平洋戦争で焼け落ちたそうです。長く続き、人々の心の拠り所となる寺社仏閣まで容赦なく破壊するのが戦争なのですね。
今年は太平洋戦争の終戦から80年です。この「一緒に歩こう」で紹介した、北野高校の西側壁面に残る機銃掃射の跡や、三国・長教寺の境内に並ぶ戦没者の個人碑、そして西中島の光用寺の「鐘のない鐘楼」など、淀川区内の戦争関連の史跡をめぐる、不戦の誓いを新たにしませんか?












