いっしょに歩こう「大和田編」

善念寺での平和の鐘つき

今回は、千北支部の「平和の鐘つき」法要でお世話になっている照耀山善念寺(以下善念寺)を訪問し、八木真人住職ご夫妻に寺の歴史や現在の取り組みについてお話をお伺いしました。

善念寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、西成郡史【1915年(大正4年)大阪府西成郡役所 著】などによると「八木高重と云う人が本願寺蓮如上人(室町時代の浄土真宗の僧)の直弟子となり文明7年(1475年)に創建」されました。当初は、浄土真宗の道場であっただろうとのことですが、「寛永7年(1630年)5月17日に寺号を受け、本堂(戦災で焼失) は、天保14年(1843年)に創建」されました。
文明の時代とは、「一休和尚」の頃で、蓮如上人が吉崎御坊(福井県あわら市)を立てた頃です。寛永は、徳川三代将軍家光の時代です。

善念寺の文化財

現在にまで残る古文化財は、喚鐘・鐘楼・手洗石、室内では、本尊阿弥陀如来・親鸞聖人絵伝・御文章があります。なかでも喚鐘は、寛文九己酉年(1669年)四月十四日の銘があります。寛文とは、徳川四代将軍家綱や水戸黄門(徳川光圀)の時代です。当寺の歴史を感じる文化財です。

また、鐘楼も屋根を改築した昭和56年(1981年)に、棟木に宝永三年築(1706年)と書かれていたのが見つかったとのことで貴重な文化財です。鐘楼の四方にある柱も創建時の柱。宝永は、徳川五代将軍綱吉の時代、富士山や浅間山がこの頃噴火しています。鐘楼と対をなした太鼓楼も戦災を免れ存在していましたが、昭和25年(1950年)のジェーン台風で境内の銀杏の大木が太鼓楼の上に倒れ、惜しくも壊れてしまったそうです。

この他、鐘楼の東側にある手洗石は、尼講が寄贈された物で弘化四年(1847年)七月と刻まれています。弘化とは、あと20年余りで明治となる徳川十二代将軍家慶の時代です。(つづく)

善念寺の周辺地図

恒久平和を願って

善念寺での平和の鐘つき

今年で戦後75年を迎えます。コロナ禍で日本はこれまでに経験したことのないような状況にありますが、決して忘れてはならないのは、原爆が投下された8月6日、9日です。千北支部では、毎年大和田の善念寺さんで平和を願って鐘をつかせていただいています。
住職さんが「戦争を経験した世代が年々高齢になり、子や孫に伝えていく機会が減っている。戦争が恐ろしいことだという認識が薄れている。二度と同じことをくり返してはいけない。私たちが伝えていかなければ」と語ってくださいました。
善念寺さんの近所に、幼稚園があります。私たちが鐘をならすと、子どもちは興味津々にこちらをのぞいていました。子どもたちが将来、この日になると平和の鐘がなっていたなと思い出してもらえるよう、これからも続けていこうと思います。

平和を願って

平和に祈りを!!

千北支部恒例の夏の取り組みを今年も行いました。まず、千北診療所での戦争展に今年は地域の方から当時の写真や新聞、戦地へと持って行った寄せ書きの書かれた国旗などが寄せられました。
鐘つき法要では、善念寺の住職さんより当時の話をお聞きしました。「当時は中学生で、戦争で戦う教育をうけた。もう二度と同じことを繰り返さないように広島の原爆展を見て痛みが分かることが大事。教育は非常に大事なこと。」とお話をいただきました。

今年の「平和の鐘つき」17人の参加

平和の願いをこめてゴ~ン=8月6日の乗願寺にて

ひめしん支部では、8月6日(日)夏恒例の「平和の鐘つき」法要を百島町の乗願寺で行いました。
猛暑の中でしたが日曜日にもかかわらず、17人の会員。・職員の方が集まってくれました。ひんやりとしたお寺の本堂で住職の講話に心が洗われるような気持ちになりました。正午からの鐘つき法要は一人一人が思いを込めて行いました。戦争のことばが死語となる世の中をめざして進んでいきましょう。

平和の大切さを学びました!

「平和のつどい」主催スタッフ = 8/25 診療所待合室にて

8月は毎年恒例の平和のとりくみを行ないました。乗願寺で「平和の鐘」法要を20人の参加で、姫島診療所/よどの里の敷地内で「平和のつどい」を80人の参加でとりくみました。
平和の鐘では住職の「悪人が人を殺すのではない。殺し殺される縁があるから人は人を殺すのだ。この社会からそういう縁をなくしましょう」 という講和に感銘を受けました。平和のつどいでは、地域の人たちと一緒に盆踊り・語り部さんのお話しや紙芝居など、平和の大切さを考えることができました。