淀協に仲間入りして 目からうろこのことばかり

健康の友500号に寄せて

子どもの頃から、医療は身近な存在でした。父が医師で、当直日直で家にいないことがしばしばあり、また、夜中でもポケベルが鳴ると勤務先へ急行することは日常茶飯事でした。母は私を産んだ時に退職をしましたが、それまでは看護師として勤務していました。

一方で私は、医療や介護と密接なかかわりのある社会や政治の問題には目を向けていたものの、自らには医療に携わる素養がないなと感じ、早々に医療や介護の道は断念しました。

そんな私が、様々な巡りあわせで淀協に仲間入りさせていただいたのが昨年の5月です。「西淀病院」も「民医連」も、存在は知っていましたが、いざ仲間入りさせていただくと、「無差別平等の医療」に向けた無料低額診療事業などの様々な取組や「健康友の会」との連携、そしてすべての人の命や健康を守るための社保運動など、まさに目からうろこのことばかりでした。

淀協は今後、西淀病院の建て替えなど、次の数十年も「無差別平等の医療」を貫くための取組に着手します。また「健康友の会」においては発足から約50年を迎え、次の数十年にわたって「地域まるごと健康づくり」に取り組むためにもこれからの数年間がとても重要な時期となります。さらには、防衛費の激増などではなく、医療や介護の充実で誰もが人間らしく生きられる社会を実現する政治への方向転換が待ったなしの情勢です。そして何より、経済の長期低迷や物価高の中で、地域には私たちとの出会いを待っている大勢の方々がおられます。

私も、歴史と伝統ある淀協の一員として、今後とも「西淀川・淀川健康友の会」の皆様と手を携えて、あらゆる方面で取組を進めていく決意です。

淀協本部専務理事付 湊 隆介

みんなによくしてもらって 子どもを育てられた

健康の友500号に寄せて

40歳から定年まで西淀病院の病棟で看護助手として働きました。現在84歳です。当時高校生と小学校生の子どもを抱えていましたが、西淀病院で働いている人は本当にみんな親切で、みんなに良くしてもらって子どもを育て上げることができました。定年後20年以上たちますが、その頃一緒に働いた仲間とは今も何かと気にかけあい、連絡を取り合って旅行に行ったり仲良くしています。

定年後は障がい者の施設で働きました。そのころから誘われて健康友の会佃支部で世話人をしています。耳が不自由になったのでそろそろやめようと思ったりしますが「元気でいるためにも続けたほうがいい」と言われるので続けています。絵手紙やカラオケなど、なるべくみんなと一緒に楽しいことをするようにしています。川柳も健康の友に(恥ずかしいですけれど)毎月投稿しています。

元職員・佃支部世話人 徳永 カズエ

沓脱タケ子さんの力強いエネルギーが礎に

健康の友500号に寄せて

私が小学校3年生(昭和30年)ごろ、市会議員選挙で沓脱タケ子先生の選挙カーが大和田町に回ってきました。

私は祖母と一緒に戸口に出ていましたが、選挙カーから落ちそうになるくらい身を乗り出して握手をしてくれた時の沓脱先生の大きな声と身体、その光景が今でも思い出されます。その力強いエネルギーが現在の西淀病院や各診療所の礎になっている事を確信しています。

私事ですが、仕事中に左足の甲に油を浴び大やけどをして、千北診療所に一年間毎日休まず治療に通い、傷跡は残りましたが手術せずにすみました。今でも感謝しています。

大和田 恩地 宏

もっと参加したい!地域を元気にする健康友の会

みなさんに支えられて

健康の友500号おめでとうございます!46年間も継続して発行されてきたことがまず凄いことです。会員の皆さんに支えられて淀協・ファルマが成り立っているのだなと感じます。

私は西淀病院で看護師として10年間働き、友の会のイベントにもたくさん参加させてもらいました。交流しイベントや行事を楽しむことが、日々の生活に活力や、彩を加え、地域の健康にとても大きな影響を与えています。「喫茶元気」は地域の方の憩いの場、職員もその輪の中に入りコミュニケーションをかわすことで、病院や診療所にたくさんの地域の顔見知りの人がいます。

地域の方が病棟に入院してきた時も、知ったスタッフがたくさんいることは患者さんにとっても安心感があります。しかしこの間、コロナの大流行によって活動が大きく制限され、コロナ後に入職した職員は会員さんと交流する機会がほとんどもてませんでした。

職員も健康友の会活動にもっと参加することが大事

最近ではコロナも落ち着き、少しずつですが健康友の会の活動に参加する機会も増えてきました。コロナ禍で人と人の繋がりが希薄になってしまった今だからこそ、健康友の会が地域の人々の元気や健康に与える影響を再認識し、職員も地域に出て、地域の方々と接する機会を増やしていくことが本当に大事だと思います。

社会に目を向けて

日々働く中で、患者さんを通して様々な問題を感じます。けれど医療の現場だけでは物事をとらえる視野が狭くなり、問題をその人自身の問題ととらえがちです。健康友の会の活動や地域との交流を通して社会に目を向けることで、諸々の社会制度やそれを作り出している政治や社会にこそ、問題や矛盾があることに気づくのだと思います。

西淀病院看護師
西淀川医療労働組合執行委員長
斉藤 千治

患者から西淀病院事務長に

「ムチウチ症」の調査をするうちに

私は元々患者でした。交通事故で東神戸病院に入院した時、「西淀病院に『ムチウチ』をよく診てくれる先生がいる」と紹介されて西淀病院を受診してみると、評判を聞いて次々に患者さんが来院されていました。患者同士で話をするうちに、共通する事項や問題があることに気づきました。

「むちうち症」を発症する際の事故の状況、どんな治療を行ったか、その効果はどうか、療養期間中の困難(経済的、精神的、仕事、家族関係など)を患者さんたちに聞きまわり、まとめて主治医に渡しました。すると「これは貴重なデータだ。もっと聞いて集めてくれ」と言われ、外科の窓口で職員として働くようになり2000人くらいの調査をしました。1967年の事です。医師や検査技師とともに、資料をまとめて学会や民医連の研究集会などで発表しました。

また、運送会社・タクシー会社を訪問し、安全な労働環境づくりなど予防対策や発症後の生活保障の問題などに、会社や労働組合と一緒に取り組みました。これらのとりくみは、キーパンチャーなどの労災・職業病の問題に広がり「労災職業病学校」、さらに「社会医学研究所」開設につながりました。
その後、当時の西淀病院の事務長が病気で退職することになり「後は頼む」と言われて、西淀病院が野里へ新築移転するまで事務長を務めました。

建て替え中の診療所で阪神大震災

1994年、建て替え計画がすすめられていた千北診療所に異動。地域を知るために当時健康友の会会長だった出畑さん(故人)と一緒に地域を歩き往診について行き、勤務後も路地を歩きました。半年後の1995年1月、阪神大震災が発生、(仮)千北診療所は液状化、外壁が落下、廊下はかまぼこ状になる惨状でした。私自身も西宮で被災、家族は西宮中央体育館で避難生活、自分は診療所の近くで風呂に入って寝泊まりする生活をしました。

2000年に退職しましたが、2003年に大腸がんの手術をして現在は全国オストミー協会の兵庫の役員をしています。健康友の会では西淀うちの支部で「喫茶元気」の運営をしています。

さらに頼られる健康友の会に

健康友の会は当初は病院や診療所からの受け身の会であったように思いますが、現在は独立した組織として地域の中で存在感を示しています。さらに地域に頼られる会になってほしいし、そういう先進性を元々持っている会であると思います。

元職員・西淀うちの支部世話人
塩川和夫