佃の開発は困難を極める
今回は、佃地域を健康友の会佃支部長の梅崎さんと尋ねました。
最初に尋ねたのは、千舟駅のそばにある「見市家」です。15世紀半ばの寛正年間に紀氏、芥川氏、見市氏など17軒の者が協力してこの地の開発をはじめました。土地には大藪といわれる藪の根が四方に延びて困難を極めたようです。現在の見市家は別邸だそうですが、古文書や古地図など多くの歴史資料が保存されています。
残念ながらコロナ禍で資料館を見る事はできませんでしたが、見市家の方とお話をすることができ、「コロナが落ち着いてきたらぜひいらしてください」と約束して、「佃鍬入の地」の碑があるところに向かいました。ここには見市家の屋敷があったところで「藪やぶ床とこ」と呼ばれ、2000坪(6600平方メートル)の土地に米俵100俵を収納する米蔵があったそうです。
「あそ歩マップ」に載せて〜!
次に佃小学校に今年の6月に建てられた「大東亜戦争被爆者鎮魂之碑」を見に行きました。以前は左門橋の東側にあったのですが、この地にうつされ、新しく「あそ歩マップ」に載せられる場所になるかもしれません。
由緒ある田蓑神社へ
最後に田蓑神社にある「紀貫之の歌碑」「謡曲『芦刈』の碑」「佃漁民ゆかりの地の碑」を見に行きました。田蓑神社には、大阪府下で最も古いといわれる狛犬(元禄15年正月17日)が本殿垣内にあり、徳川家康没後の寛永8年(1631年)には東照宮が祀られています。紀貫之の歌碑は「雨により田蓑の島をけふゆけばなにはかくれぬものにぞあるける」という歌がのっています。
また神社は「芦刈ゆかりの地」となっています。「川辺の芦を刈りながら貧しさに耐え暮していた夫婦が、男は妻を京へやり、別れてくらすことにしました。しかし、お互いの事が忘れられず、謡曲『芦刈』では男と、難波へもどった女が歌を交わして、互いの気持ちを伝え、ともに京に向かう」ということになっています。
最後に徳川家康から命じられ江戸に向かった佃村の庄屋、森孫右衛門たちは江戸時代の正保元年(1644年)に隅田川河口の造成事業を行い、その土地にふるさとと同じ佃島と名付けたそうです。そして今でも東京の佃島との交流が続いており、神社の真ん中にある鳥居は寄付人が「東京都中央区佃 講元」となっています。