いっしょに歩こう「大野・百島編」

今回は、大野川緑陰道路(旧大野川)の対岸である大野を訪ねました。地名は、開発当時に「大いなる野原」であったことに由来します。江戸時代初期の正保年間(1644年〜47年)に播磨樋口村(兵庫県)の樋口伊兵衛が新田開発により耕地化してできた土地です。

しかしながら、海に面する土地で低湿地だったため野菜類や藁などの生産も出来にくく困っていたので、耕作の合間に漁業を行う「半農半漁」の地域として発展しました。船は大野川に停泊させ、戦前は漁師も多く、40〜50軒あり、主として淀川に出て漁を行なっていました。イナやボラ、スズキなどを捕り、シラウオ漁でも有名でした。

大野百島住吉神社

 まず、最初に訪れたのは、大野百島住吉神社です。正保元年(1644年)4月、この地が開発された時、村民の協力により住吉四神を守護神として創建されました。福住吉神社と同じく毎年、8月17日に豊漁を祈願する「豊漁祭」が行われていました。
境内には、天明元年(1781年)銘の石灯籠や昔、楠の大樹が社頭をおおい、生い茂っていたことがわかる枯損した古株が御神木としてまつられています。

日谷山乗願寺

 次に浄土真宗本願寺派の寺院である日谷山乗願寺を訪問しました。長澤住職にお話をお伺いしたところ、丹波の国の領主だったご先祖が関ケ原の合戦(1600年)の時、石田三成方(西軍)として戦い、兜に入れて持ち歩いたと言い伝えのある一寸八分の阿弥陀仏像が当寺には代々継承されており、拝見させていただくことができました。関ケ原の合戦後、大野の地に移住し乗願寺を創建されたとのことでした。乗願寺は毎年「平和の鐘つき」法要でお世話になっています。


大野百島住吉神社


日谷山乗願寺

(つづく)

いっしょに歩こう 福町編

今回は、桜咲く春の福町を訪れ、漁業の歴史探訪をしてみました。福町(旧福村)の地名の由来は、不詳ですが、『西淀川区史』(発行:西淀川区制七十周年記念事業実行委員会)などによれば、1644年(正保元年)に大野村の樋口忠兵衛によって新田開発されできた地域です。

新田開発とは、普通なら田んぼにできない土地を開拓して新たな田んぼを作ることです。江戸時代に入ってから領地の石高(土地の生産性)を上げるためおこなわれました。福は、新田開発の中でも町人請負新田といって江戸時代に裕福な町人が開発を請け負った新田地域です。しかし、水深が深いために埋め立ては困難を極めました。

このことから福村は、農村というよりは漁村として発展していきました。明治の頃には約200軒(村の戸数の約半分)が漁業を営み、ハマグリ、アサリ、サルボウ貝などの貝類の採取が有名で「貝の福」として名が知れ渡っていました。大正末期から昭和初期にかけて漁業は最盛期を迎え、「福村の道路は、貝殻でできている」とも言われました。ウナギ漁も盛んで専門の漁師がいたほどでした。

福住吉神社

福駅から桜満開の大野川緑陰道路を歩いて「福住吉神社」を訪ねました。福住吉神社は、福村の開発後、漁業従事者が増えたことから豊漁と航海安全を祈って1656年(明暦2年)に神崎川の川床に宮地(☆1)を築いて、住吉四柱大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后)を勧請(☆2)しました。かつては、毎年8月17日に豊漁を祈願する「海神祭」も行われていたそうです。訪問した日、神社内は桜満開でした。

福の船溜まり

さらに大野川緑陰道路を歩き向かったのは、淀川対岸の此花区伝法とともに、大阪市内に残る数少ない漁港の一つである「福の船溜まり(福漁港)」を訪ねました。

現在も漁船が停泊しており、漁業最盛期の頃の漁船の往来の様子のなごりを残していました。また、淀川と接しており大阪市街地のビル群や大阪湾岸も望むことができます。

近くには、「新淀川公園」(百島1丁目)もあり桜が咲き誇るスポットとなっていました。ここでちょっと一息いれてみるのもいいものです。漁業が盛んだった福ですが、新淀川開削の影響や付近の工業地帯化により衰退していきました。

地域の方で当時のことをお知りの方は、ぜひ、編集委員会までご連絡ください。よろしくお願いいたします。


福住吉神社


福の船溜まり

いっしょに歩こう 加島地域編

今回から淀川区に入ります。健康友の会竹島・加島支部世話人の安野さんと一緒に巡ってみました。

毛剘倫橋(もすりんばし)って知ってますか?

最初は、毛剘倫橋を紹介します。毛剘倫とは、獣毛を用いた織物で、もともとは、メソポタミアのモスルと言うところで織りだされた布地で、ヨーロッパを通じて幕末、明治にかけて輸入されていました。明治後半に国内生産が始まったそうです。

加島のこの地でも会社が設立され、対岸に工場を建設、工場と会社の間の神崎川に橋を架けて、その名を毛剘倫橋と名付けたとの事です。第2次大戦中、会社も工場も戦闘機を作る工場になり、それも焼失してしまい、名前だけが残ってしまったという橋のお話しでした。
一時期、毛剘倫は和服にも使われ、逆に輸出もしていたようです。

名前だけが残った「もすりんばし」

数多くの歴史上の人物と縁を持つ富光寺(ふっこうじ)

『富光寺縁起』によると、法道仙人が建てた建物がその起源になっていると言われています。長い歴史の間に、みなさんもご存じの孝徳天皇、法然上人、北条時頼、楠木正成、三好長慶(みよしながよし)、豊臣秀吉などと縁のあるお寺のようです。

山号は長慶山。その名からも分かるように、特に三好長慶は縁が深いようです。このように大変歴史のあるお寺です。富光寺では「見つけて持っていれば幸せになる」という「三鈷の松(さんこのまつ)」を配っています。興味のある方は是非訪れて下さい。

江戸時代、加島は鍛冶職人のまち
良質の銭を作っていた「加島銭座(かしまぜにざ) 」

加島の名は、一説に鍛冶ヶ島(かじがしま)が転じたものだといわれています。鍛冶を職業とする村人が多く住んでいたことからの由来であるということです。銭座とは、お金を鋳造している所の事だそうです。

大阪には高津、難波、加島の3カ所にその銭座があり、その中でも加島銭座は「酒は灘、銭は加島」といわれるほど、良質の寛永通貨(銅銭、鉄銭)を鋳造していました。銭座の場所は、加島4丁目の香具波志神社門前からの神崎川堤防までの地域にあったということです。その跡地である碑が香具波志神社の鳥居を潜った直ぐの所にあの「雨月物語」の作者でも有名な上田秋成寓居跡と言う名前と並び記されています。

香具波志神社のすみにある銭座跡地

 

今回紹介したところは、どこも分かり難い場所にあり、安野さんが地域の会員さんに聞いて頂いたり、かぐわし幼稚園の園児のお母さんに声をかけたりと奮闘頂きました。ありがとうございました。


毛剘倫橋(もすりんばし)


富光寺(ふっこうじ)

加島銭座跡

いっしょに歩こう 佃地域編

見市家資料館の入り口

佃の開発は困難を極める

今回は、佃地域を健康友の会佃支部長の梅崎さんと尋ねました。
最初に尋ねたのは、千舟駅のそばにある「見市家」です。15世紀半ばの寛正年間に紀氏、芥川氏、見市氏など17軒の者が協力してこの地の開発をはじめました。土地には大藪といわれる藪の根が四方に延びて困難を極めたようです。現在の見市家は別邸だそうですが、古文書や古地図など多くの歴史資料が保存されています。

残念ながらコロナ禍で資料館を見る事はできませんでしたが、見市家の方とお話をすることができ、「コロナが落ち着いてきたらぜひいらしてください」と約束して、「佃鍬入の地」の碑があるところに向かいました。ここには見市家の屋敷があったところで「藪やぶ床とこ」と呼ばれ、2000坪(6600平方メートル)の土地に米俵100俵を収納する米蔵があったそうです。

「あそ歩マップ」に載せて〜!

次に佃小学校に今年の6月に建てられた「大東亜戦争被爆者鎮魂之碑」を見に行きました。以前は左門橋の東側にあったのですが、この地にうつされ、新しく「あそ歩マップ」に載せられる場所になるかもしれません。

由緒ある田蓑神社へ

最後に田蓑神社にある「紀貫之の歌碑」「謡曲『芦刈』の碑」「佃漁民ゆかりの地の碑」を見に行きました。田蓑神社には、大阪府下で最も古いといわれる狛犬(元禄15年正月17日)が本殿垣内にあり、徳川家康没後の寛永8年(1631年)には東照宮が祀られています。紀貫之の歌碑は「雨により田蓑の島をけふゆけばなにはかくれぬものにぞあるける」という歌がのっています。

「佃漁民ゆかりの地」の碑

また神社は「芦刈ゆかりの地」となっています。「川辺の芦を刈りながら貧しさに耐え暮していた夫婦が、男は妻を京へやり、別れてくらすことにしました。しかし、お互いの事が忘れられず、謡曲『芦刈』では男と、難波へもどった女が歌を交わして、互いの気持ちを伝え、ともに京に向かう」ということになっています。

最後に徳川家康から命じられ江戸に向かった佃村の庄屋、森孫右衛門たちは江戸時代の正保元年(1644年)に隅田川河口の造成事業を行い、その土地にふるさとと同じ佃島と名付けたそうです。そして今でも東京の佃島との交流が続いており、神社の真ん中にある鳥居は寄付人が「東京都中央区佃 講元」となっています。

いっしょに歩こう 竹島地域編

竹島3丁目にある旧家の塀伝い

アイスコーヒーが、ない!

今回は、御幣島支部の世話人さんたちと竹島地域を訪問しました。御幣島地域から竹島地域へは、竹島本通りを歩いて向かいました。行く途中にとても昭和チックな「ビン入りアイスコーヒー」を作っている「ナニワコーヒー」があるはずでしたが、残念ながらすでに閉まっていました。暑い中、喉を潤すことができませんでした。

旧家の中にタイムスリップ

「さあこれから竹島」と言うところで交番があったので、勤務中の警官に「今この古い家並みを探して歩いているのですが、これってありますよね」と地図を見せながら話をしました。すると「これもう潰されてなかったんちゃうかな」という返事をもらい、「えー、ないんですか」と落たんの声を漏らしました。

「もうこれらの旧家はないかもわからないけど」と地図に沿って歩くと、「あれー、ひょっとして、あの木ってこの写真の木と同じと違う」という場所がなんと見つかったのです。「わあ、ほんまに向こうにこの古い家もあるわ」と、この一角だけ昔のままの古い家や大きな家が残っていたのです。「すごいね。こんな場所が残っていたんやね」とみんなタイムスリップしたようにうれしくなりました。

竹島公園内にある竹島天神社跡の碑

最後は竹島天神社跡

古い家の中を縫うように進んで、最後に竹島公園にある「竹島天神社跡」に向かいました。
かつて、ここは竹島天神社の祠が文禄3年(1594)に勧請され、文政6年(1823) に社殿修理、文政9年(1826)には石灯籠が寄進されたところです。しかし明治42年(1909)に香具波志神社に合祀されてしまいました。
最後に「お疲れさま、ほんまに暑かったわー」「さあ、冷たいもん飲もうか」とみんなでコンビニに入りました。暑いけど、楽しい地域めぐりでした。


旧家


竹島天神社跡(竹島公園内)