いっしょに歩こう 加島地域編

今回から淀川区に入ります。健康友の会竹島・加島支部世話人の安野さんと一緒に巡ってみました。

毛剘倫橋(もすりんばし)って知ってますか?

最初は、毛剘倫橋を紹介します。毛剘倫とは、獣毛を用いた織物で、もともとは、メソポタミアのモスルと言うところで織りだされた布地で、ヨーロッパを通じて幕末、明治にかけて輸入されていました。明治後半に国内生産が始まったそうです。

加島のこの地でも会社が設立され、対岸に工場を建設、工場と会社の間の神崎川に橋を架けて、その名を毛剘倫橋と名付けたとの事です。第2次大戦中、会社も工場も戦闘機を作る工場になり、それも焼失してしまい、名前だけが残ってしまったという橋のお話しでした。
一時期、毛剘倫は和服にも使われ、逆に輸出もしていたようです。

名前だけが残った「もすりんばし」

数多くの歴史上の人物と縁を持つ富光寺(ふっこうじ)

『富光寺縁起』によると、法道仙人が建てた建物がその起源になっていると言われています。長い歴史の間に、みなさんもご存じの孝徳天皇、法然上人、北条時頼、楠木正成、三好長慶(みよしながよし)、豊臣秀吉などと縁のあるお寺のようです。

山号は長慶山。その名からも分かるように、特に三好長慶は縁が深いようです。このように大変歴史のあるお寺です。富光寺では「見つけて持っていれば幸せになる」という「三鈷の松(さんこのまつ)」を配っています。興味のある方は是非訪れて下さい。

江戸時代、加島は鍛冶職人のまち
良質の銭を作っていた「加島銭座(かしまぜにざ) 」

加島の名は、一説に鍛冶ヶ島(かじがしま)が転じたものだといわれています。鍛冶を職業とする村人が多く住んでいたことからの由来であるということです。銭座とは、お金を鋳造している所の事だそうです。

大阪には高津、難波、加島の3カ所にその銭座があり、その中でも加島銭座は「酒は灘、銭は加島」といわれるほど、良質の寛永通貨(銅銭、鉄銭)を鋳造していました。銭座の場所は、加島4丁目の香具波志神社門前からの神崎川堤防までの地域にあったということです。その跡地である碑が香具波志神社の鳥居を潜った直ぐの所にあの「雨月物語」の作者でも有名な上田秋成寓居跡と言う名前と並び記されています。

香具波志神社のすみにある銭座跡地

 

今回紹介したところは、どこも分かり難い場所にあり、安野さんが地域の会員さんに聞いて頂いたり、かぐわし幼稚園の園児のお母さんに声をかけたりと奮闘頂きました。ありがとうございました。


毛剘倫橋(もすりんばし)


富光寺(ふっこうじ)

加島銭座跡

いっしょに歩こう 佃地域編

見市家資料館の入り口

佃の開発は困難を極める

今回は、佃地域を健康友の会佃支部長の梅崎さんと尋ねました。
最初に尋ねたのは、千舟駅のそばにある「見市家」です。15世紀半ばの寛正年間に紀氏、芥川氏、見市氏など17軒の者が協力してこの地の開発をはじめました。土地には大藪といわれる藪の根が四方に延びて困難を極めたようです。現在の見市家は別邸だそうですが、古文書や古地図など多くの歴史資料が保存されています。

残念ながらコロナ禍で資料館を見る事はできませんでしたが、見市家の方とお話をすることができ、「コロナが落ち着いてきたらぜひいらしてください」と約束して、「佃鍬入の地」の碑があるところに向かいました。ここには見市家の屋敷があったところで「藪やぶ床とこ」と呼ばれ、2000坪(6600平方メートル)の土地に米俵100俵を収納する米蔵があったそうです。

「あそ歩マップ」に載せて〜!

次に佃小学校に今年の6月に建てられた「大東亜戦争被爆者鎮魂之碑」を見に行きました。以前は左門橋の東側にあったのですが、この地にうつされ、新しく「あそ歩マップ」に載せられる場所になるかもしれません。

由緒ある田蓑神社へ

最後に田蓑神社にある「紀貫之の歌碑」「謡曲『芦刈』の碑」「佃漁民ゆかりの地の碑」を見に行きました。田蓑神社には、大阪府下で最も古いといわれる狛犬(元禄15年正月17日)が本殿垣内にあり、徳川家康没後の寛永8年(1631年)には東照宮が祀られています。紀貫之の歌碑は「雨により田蓑の島をけふゆけばなにはかくれぬものにぞあるける」という歌がのっています。

「佃漁民ゆかりの地」の碑

また神社は「芦刈ゆかりの地」となっています。「川辺の芦を刈りながら貧しさに耐え暮していた夫婦が、男は妻を京へやり、別れてくらすことにしました。しかし、お互いの事が忘れられず、謡曲『芦刈』では男と、難波へもどった女が歌を交わして、互いの気持ちを伝え、ともに京に向かう」ということになっています。

最後に徳川家康から命じられ江戸に向かった佃村の庄屋、森孫右衛門たちは江戸時代の正保元年(1644年)に隅田川河口の造成事業を行い、その土地にふるさとと同じ佃島と名付けたそうです。そして今でも東京の佃島との交流が続いており、神社の真ん中にある鳥居は寄付人が「東京都中央区佃 講元」となっています。

いっしょに歩こう 竹島地域編

竹島3丁目にある旧家の塀伝い

アイスコーヒーが、ない!

今回は、御幣島支部の世話人さんたちと竹島地域を訪問しました。御幣島地域から竹島地域へは、竹島本通りを歩いて向かいました。行く途中にとても昭和チックな「ビン入りアイスコーヒー」を作っている「ナニワコーヒー」があるはずでしたが、残念ながらすでに閉まっていました。暑い中、喉を潤すことができませんでした。

旧家の中にタイムスリップ

「さあこれから竹島」と言うところで交番があったので、勤務中の警官に「今この古い家並みを探して歩いているのですが、これってありますよね」と地図を見せながら話をしました。すると「これもう潰されてなかったんちゃうかな」という返事をもらい、「えー、ないんですか」と落たんの声を漏らしました。

「もうこれらの旧家はないかもわからないけど」と地図に沿って歩くと、「あれー、ひょっとして、あの木ってこの写真の木と同じと違う」という場所がなんと見つかったのです。「わあ、ほんまに向こうにこの古い家もあるわ」と、この一角だけ昔のままの古い家や大きな家が残っていたのです。「すごいね。こんな場所が残っていたんやね」とみんなタイムスリップしたようにうれしくなりました。

竹島公園内にある竹島天神社跡の碑

最後は竹島天神社跡

古い家の中を縫うように進んで、最後に竹島公園にある「竹島天神社跡」に向かいました。
かつて、ここは竹島天神社の祠が文禄3年(1594)に勧請され、文政6年(1823) に社殿修理、文政9年(1826)には石灯籠が寄進されたところです。しかし明治42年(1909)に香具波志神社に合祀されてしまいました。
最後に「お疲れさま、ほんまに暑かったわー」「さあ、冷たいもん飲もうか」とみんなでコンビニに入りました。暑いけど、楽しい地域めぐりでした。


旧家


竹島天神社跡(竹島公園内)

いっしょに歩こう 御幣島地域編

難波八十島の名残を求めて
〜その名も御幣島、神代の昔から〜

八十島祭が行われた住吉神社跡

今回は御幣島支部の世話人のみなさん5人と御幣島・竹島地域を訪問しました。

御幣島地域は平安時代に八十島祭を行い、浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)上人、武内宿禰(たけのうちのすくね)(景行天皇から5代の天皇に仕え、300年生きたと伝説の人物)の墓があったり、その末裔の紀貞之(きのさだゆき)がお寺の建立に関わったなど有名な場所があります。今回は「住吉神社跡碑」と「浄土真宗本願寺派」の光明寺を訪れました。

まず、「住吉神社跡碑」を訪れました。この地にあった神社が明治42年(1909年)に、加島の香具波志(かぐはし)神社に合祀されました。昔はこの場所で八十島祭などにぎやかに行われていたのでしょう。

次に、光明寺に向かいました。この寺は浄土真宗本願寺派で、山号(さんごう)(※1)は幣帛山(へいはくさん)といいます。武内宿禰の子孫と称する紀貞之が本願寺の蓮如上人に帰依して嘉吉2年(1442年)に創建されたという由緒あるお寺です。

また、同じ境内に土佐日記などで有名な紀貫之(きのつらゆき)(武内宿禰の子孫)の歌碑「ふる雪に木々の梢をながむれば しろたえなりや みてくらのしま」の歌碑があります。
さらに、一休和尚(一休宗純1394〜1481禅僧)がたびたび泊まったと言われ、和尚の碑と自画賛の一軸(非公開)が残されています。

お墓の奥には、武内宿禰と子孫の紀定盛(きのさだもり)のとても古い墓があります。ご住職は「2基のお墓が立っていますが、どちらが宿禰でどちらが定盛のものかはわかりませんが、ロマンを大事にしてほしいです」とおっしゃっていました。

古い墓、どちらが宿禰かな

更にこの寺の本堂は、昭和2年に奥丹後の地震により倒壊し、昭和30年の仮本堂の竣工迄ご本尊は庫裡(くり)(※2)に移されていました。昭和42年「本堂の建立を」との議が檀信徒(だんしんと)(※3)の間に広がり、昭和44年末に本堂の竣工を見ることとなります。

このように地域でとても大事なお寺なのです。地域の皆さんにも知って頂き、お立ち寄りいただきたいです。
長く御幣島に住んで居ても「知らないことが多い」が参加者一同の実感でした。

※1 寺院の名前の上に付ける称号
※2 住職やその家族の住む場所
※3 檀家とはその寺にお墓を持っている家のことをいい、信徒とはそのお寺にお墓はないけれども、葬儀、法事などをおまかせする人のことをいっていることが多いようです。

住吉神社跡 西淀川区御幣島4-14-9

光明寺 西淀川区御幣島4-14-12

いっしょに歩こう 姫島地域編(大和田街道の続き)

珍しい「反った鳥居」のある姫嶋神社

この日は姫嶋神社の禰宜(ねぎ)の奥さんにお話を伺いました。「この神社は戦争で全て焼けてしまったのです。楠だけが焼け残って、そこに三本の楠を植えてくださり、根と根が結ばれ倒れずに4本ともご神木になっています」と話をしてくれました。この三本の楠を「結びの木」といっているそうです。蛇神が祀られている楠社は再生の象徴である蛇の信仰も合わさり「再出発の木」とも言われています。

また神社のご祭神はアカルヒメノミコトで「決断と行動の神様」として信仰されてきたそうです。空襲で姫島の約4割が被害にあい、戦火の為に社殿、宝物、過去の文献などすべてを焼失、何もない状態からの出発となったことから「やりなおし神社」とも言われ、「やりなおし祈祷」をおついたち(毎月1日)だけに行なっています。なんと北海道など全国から来られるそうです。そして禰宜の奥さんは、「ここは家族で運営しています。今の禰宜(ねぎ)が御朱印を変え、『神を知ってもらうこと』を大切にしてこられたのが、今の姫嶋神社をつくってきた力になったようです」と言われました。

そしていっしょに行った、はっぴぃひめじま支部世話人の糠野さんが「帆立絵馬」と「断ち玉」について話をしてくれました。「縁起のいい帆立」を絵馬にすることで新しいスタートが順風満帆に進むそうですし、夢や願いをかなえる為に断ち切らなければいけない事や物を念じ、念じた玉を「はじまりの碑」の上部に空いた穴を通すことで封じ込めておくものだそうです。本当にたくさんの言い伝えがあります。ぜひ一度姫嶋神社に行ってみましょう。

最後に「中島大水道跡の碑」(千舟一丁目の緑陰道路内)をたずねました。中島大水道は大道村(現在の東淀川区大道町)の庄屋澤田久左衛門ほかの首唱により、沿岸村民一致の努力と多大の犠牲のもとに、東淀川区淡路本町2丁目から西淀川区福町までの間、延宝6年に開削されたと伝えられます。その後、明治30年から40年にかけて行われた淀川改修工事に伴い、神崎川支流であった大野川と合流し、地域の人に多大なる恩恵をあたえてきました。しかし、近年河川としての機能を失うに至り、下流の大野川とあわせて埋め立てられ、緑豊かな歩行者・自転車専用道路としてよみがえりました。

次回は、御幣島の地域に行きます。お楽しみに…。