いっしょに歩こう「新大阪駅周辺」

10月1日、新大阪駅は開設60年を迎えました。淀川区のふれあい三国支部が拠点を置くファミリークリニックあい周辺では、区画整理事業が進行中ですが、60年前に開業した新大阪駅とその周辺も、この60年で急速にその街並みを変えました。

1961年に、旧国鉄が新大阪駅の位置を西中島付近と定めた時、特にその北西側には広大な農地が広がっていました(世話人さんのご親族のお話では、当時は蓮池があり、ザリガニ釣りをして遊んだそうです)。中島大水道と呼ばれる江戸時代に掘削された農業用水路がその流れをとどめていました。建物自体がまばらなエリアだったのです。

国土地理院の空撮地図(1945〜1950年)。中心の十字が現在の新大阪駅付近。北西側は広大な農地です。

現在、新大阪駅の周辺では、西中島7丁目、宮原1丁目付近が戦前からの集落としての名残をとどめており、比較的狭い路地に、光用寺さん(西中島7丁目・747年の創建ともいわれています)や重厚な門構えの邸宅(宮原1丁目)などがあり、往時をしのばせます。西中島7丁目には「さいの木神社」という小さなお社があり、ここには、中島大水道を江戸幕府の許可なく掘削した3人の庄屋(役人にとらえられる前に抗議の自害をしました)がまつられています。

光用寺(西中島7丁目)。戦時中に鐘を供出し、鐘楼に鐘はありません。

また、場所と建物の形態などは変わりましたが、北中島小学校はなんと150年前の1874年の開校。以来、多くの子どもたちを社会に送り出してきました。戦時中には、生徒の疎開が終わったのち校舎の一部が軍用資材の保管倉庫となっていたため、1945年6月7日に周辺集落とともに空襲被害に遭ったことも記録されています。

さて、新大阪駅の周辺は2022年度に国の都市再生緊急整備地域に指定されました。規制緩和のもと、街の姿はさらなる変貌を遂げようとしています。居住者、オフィスワーカー、専門学校の学生、旅行者などが混然一体となった街では、多くの自転車や車が行き交い決して歩行者に安全な街とはいえず、また案外緑や公園も少なく、さらに駅までの公共交通も十分とは言えません。人間が主役の街づくりへ、西淀川・淀川健康友の会の役割の発揮が求められる中、ファミリークリニックあいは、本年12月で開業10周年を迎えます。

いっしょに歩こう「淀川区分区50年」

淀川区分区50年

竹島加島支部、塚本支部、ふれあい三国支部の3支部と、淀協・ファルマの事業所(ファミリークリニックなごみ、ファミリークリニックあい、もえぎ薬局、あおぞら薬局三国店、訪問看護ステーションサテライトあい、ケアプランセンターあい)のある淀川区ですが、実は歴史はそこまで古くなく、発足したのは1974年。本年7月22日で50周年を迎えました。

では、淀川区発足まではどうだったのか?実は、現在の東淀川区と共に旧東淀川区を構成していたのでした。その名残で、今でも淀川区内に「東淀川税務署」「東淀川高校」「東淀川病院」など東淀川の名前を冠した施設がいくつもあります。

また、淀川区内の土地なのに東淀川区側で管理している場所や(画像①)、「東淀川区」の表示が残っている建屋(画像②)があります。この建屋は、戦後直後から三国で手造りこんにゃくの製造販売を続ける「狭川商店」(画像③)で、地域からは単に「こんにゃく屋さん」と呼ばれて親しまれています。(下の画像はクリックで拡大)

さらに、淀川区発足に合わせて町丁名の再編も実施され、例えば木川西5・6丁目の町名がなくなり、三国本町や西宮原の一部となりました。今でも、三国本町や西宮原に「木川」の名前を冠した市営住宅が建っているのはこのためです。

ちなみに、今年で45回目を数える「世なおし盆おどり」(今年は9月13日、14日)が開催される三国本町公園は、かつては自動車教習所だったそうです。地域で長年製材・材木商を営んでいた方が教えてくださいました。

ところで、淀川区は今年、平野区を抜いて大阪市で一番人口が多い行政区となりました。そんな淀川区で「地域まるごと健康づくり」の活動を更に進めるため「西淀川・淀川健康友の会淀川区ブロック」としての活動を開始しています。

第1弾は、9月21日午前10時半(開場10時15分)から淀川区民センター第一会議室で開催する「マイナ保険証」に関する学習会です。ぜひ、ご参加ください。

淀川区民センター

いっしょに歩こう「淀川区三国編」

戦争で移転した長教寺

西三国の住宅街にあります

今回は、淀川区西三国のファミリークリニックあい近くにある長教寺さんを、ふれあい三国支部世話人の前背戸由佳さんと訪ねました。阪急三国駅東口を出て、商店街を東に進み、スーパーの角を北に曲がると長教寺さんがあります。

長教寺の開基年代は不詳ですが、記録によると、1685年には現在の大阪駅前第2ビルあたりにお堂があったそうですが、1945年の大阪大空襲で灰燼に帰しました。出征していた先々代のご住職が復員されたのち、檀家の尽力もあり1952年に西三国の地に移転、その後1965年に本堂を再建し現在にいたります。ちなみに、本堂の中のご本尊と「お軸じく」は戦争末期に、茨木市に疎開しており難を逃れたそうです。

戦没者を弔う碑

このお寺で最も目を引くのは、その境内にある多くの個人碑と、「忠霊」と書かれたひときわ大きな石碑です。これらは、太平洋戦争で三国地域より出征し亡くなった方を弔うためのもので、個人碑の1つ1つに、お名前、戦死日、戦死場所、亡くなった時の年齢が記されています。
個人碑は130基あり143人の名前が記されています。そして忠霊碑では247人の方が合祀されています。

1つ1つの碑にお名前が

三国地域遺族会は、大阪市の遺族会よりも早く、1946年8月に結成されました。その後、先々代のご住職が協力され境内の一画を無償提供することになったそうです。

ひときわ目立つ「忠霊」の碑

本来、浄土真宗では国家の命令によって命を奪われた軍人のみを弔うという考え方はないそうですが、自らも出征した先々代が亡くなった方の悲嘆を思い、碑の建立に協力されたとのこと。三国地域遺族会は活発に活動されていましたが、高齢化の影響で2015年に解散。長教寺が永代供養を引き受けられ、今でも毎年8月15日に法要をあげられています。

想像することが大事

長教寺では、昨年9月末に西淀川・淀川健康友の会ふれあい三国支部主催の「平和を考えるつどい」を開かせていただきました。今回改めてご住職にお話をうかがうと「戦死された方にも苦悩があったと思う。口が裂けても『死にたくない』と言えなかった時代。心の中ではどのように思っておられたことか。想像することが大事」とお話しくださいました。

平和を考えるつどい

長教寺は、朝8時から午後5時まで開門されており、開門中は誰でもお参りできます。静かな住宅街の石碑の前で、戦争の悲惨さと平和の尊さを思いながらお参りされてはいかがでしょうか?

いっしょに歩こう「淀川区加島編」

香具波志神社

 

阪神大震災で崩壊し、再建された鳥居

今回は、淀川区加島の(公財)淀川勤労者厚生協会付属ファミリークリニックなごみ近くにある香具波志神社を湊さん、竹島加島支部世話人の木佐さん、山脇さんとともに訪問しました。「七五三やらみんなこちらで。保育園にもお世話になって」「お祭りのときはここに屋台が並ぶんよー」など、お話しを聞きながら境内に入るとクスノキの巨木に目を見張りました。

クスノキの巨木

香具波志神社は、平安時代の959年創建と伝わる古い歴史を持つ神社です。社名は孝徳天皇が当地に行幸し、「香ぐはし」と詠んだ句によると云われています。本殿は1863年に建てられたものでしたが、1995年の阪神・淡路大震災により崩壊し、その後再建されました。

本殿

境内には様々な史跡が残ります。南北朝のころ、楠木正儀(くすのきまさのり)が、佐々木氏との合戦時に焼却した旧神崎橋である「康安年間ゆりあげ橋橋脚」や当社に戦勝祈願した際に愛馬をつないだという「楠木正儀、駒つなぎの楠」です。
この駒つなぎの楠は、その後大阪市一の巨木になり、1938年には大阪府の天然記念物に指定されましたが、河川暗渠化のために枯死し、今は切り株が残されています。

他にも戦国時代、三好長慶(みよしながよし)が戦勝祈願に朱大鳥居を奉納した「三好長慶、奉納の朱塗大鳥居の社名額、礎石」や、2021年大阪市有形指定文化財に指定された「蔵王権現神像(ざおうごんげんしんぞう)、童子像」、1959年大阪市史跡に指定された「上田秋成(うえだあきなり)奉納和歌帖、文化資料、遺品」、「加島銭座(かしまぜにざ)奉納品、運営資料、作成道具」などが残されています※1。

境内はクスノキの巨木を含め緑豊かで、隣接する保育園の園児の遊び場ともなっています。本殿前の白い梅、後ろ側の赤い梅の木にも癒されました。

紅梅の下を歩く

近隣の加島北公園にも立ち寄りました。住宅地の真ん中に縦長く広がる公園です。春は桜も咲き四季を楽しむことができそうです。遊具はすべり台、ブランコ、お砂場、鉄棒などが設置されています。

この公園では、5月11日(土)15時から「よどがわフードバンク食料助け合い市場」が予定されています(雨天時はファミリークリニックなごみ内で開催)。

※1 参考:大阪市ホームページ
淀川区の都市景観資源(わがまちナイススポット)

いっしょに歩こう「新北野編」

弾痕が残るメモリアルウォール

今回は、淀川区新北野にある大阪府立北野高等学校の旧校舎本館西壁(メモリアルウォール)のアジア太平洋戦争空襲による弾痕と殉難乃碑について紹介します。

記事の作成に当たっては、北野高校卒業生の門谷充男さん(社会福祉法人西淀川福祉会理事長)とともに昨年12月同校を訪問し、石田和弘教頭先生にご案内いただきました。

アジア太平洋戦争中の大阪は、1944年12月以降1945年8月15日の終戦まで50回を超える空襲を受けました。

1944年夏頃より空襲を避けるため学童疎開がはじまり、国民学校の児童は、地方に疎開しましたが、旧制中学校のほとんどは授業が行われず、3年生以上は軍需工場で働かされ、1、2年生は、食料増産のため農場などで勤労奉仕、または、学校防衛にあたっていました。

このような中で、淀川区域では、1945年3月と6月にあわせて4回の大きな空襲がありました。とりわけ6月15日の米軍爆撃機B29 /449機による大空襲では、多くの犠牲者がでました。北野高校の前身である旧制北野中学校では、学校防衛中の生徒2人がなくなるなどの大きな被害がでました。

1986年、犠牲になった生徒2人の同級生の人たちが追善供養のために北野高校校庭に「殉難乃碑」を建立しました。「殉難乃碑」の裏には、ご遺族の方の文章と詩が寄せられています。

旧校舎本館西壁には、空襲時の米軍戦闘機グラマン機の機銃掃射の28個の弾痕が残り、機銃掃射の激しさを今に伝えています。この弾痕は校舎の改築工事の際、「後世にこの惨禍を伝えていくために」と教職員・同窓生が尽力して保存され、「メモリアルウォール」と呼ばれています。

ウクライナ、ガザで戦禍が続き子どもたちの命が奪われ続けている今、身近な戦争の跡は平和の尊さを私たちに訴えかけてきます。

「殉難乃碑」裏面に刻まれたご遺族の文章
(原文ママ)

6月14日の朝、ゲートルを巻きながら、今夜当番をしてあす朝帰ってきたらお母さんに、パンを取ってきてあげるよといひますから、それはどうしたパンなのかと聞きますと、夜警するからパンが配給になると言います。またそんなことをいふ、一晩中夜警するので其の為に下さるパンは、必ず食べねばいかん、それを食べなんだらお腹がすいて、まさかの時お役に立たない、食べなさいといったら、笑ひながらもう一つよいことがある、今日からお米の配給もあるのでそれもあげられると、嬉しそうに挙手の礼をし、行って来ますと出かけました。死んだとき、私が学校で彼のカバンを見ましたら、パン二個とハンカチに包んだ米とが入っていました。