いっしょに歩こう「佃地域編」(2)

佃の漁民と徳川家康

佃1丁目にある田蓑神社。その境内には家康を祀る東照宮があります。前回掲載の「佃漁民ゆかりの地」の碑も建立されており、家康と佃地域の結びつきが深いことがわかります。

田蓑神社内 家康を祀る東照宮

『西淀川区史』(発行: 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会・1996年)などによれば、天正年間(1580年代・1586年)に家康が浜松城から上洛し、多田神社(兵庫県川西市)に参拝したことがありました。その時、家康一行が神崎川を渡ろうとしたのですが、渡船がありませんでした。そこで、家康が佃村と隣村の大和田村の漁民に漁船の提供を命令指示して川を渡ったそうです。

これがきっかけとなり以後、家康と佃漁民との交流がはじまり、家康が伏見城在城の時は、西宮や明石など西国の海上の隠密を担っていました。「大阪冬の陣・夏の陣」では軍船(武器などを運送)や魚の調達などを担い、徳川方に味方しました。

これらの功績から慶長17年【1612年・(天正18年〈1590年〉説もある)】に徳川二代将軍秀忠が江戸在城の時、安藤対馬守の命令で佃・大和田村の漁師ら34人が江戸に呼び寄せられ、安藤対馬守宅らの屋敷で暮らすことになり、白魚漁をして将軍に献上するようになりました。
その後、佃・大和田村の漁民は当初、毎年11月〜翌3月迄漁業を行い、春の農繁期に故郷(佃) に帰っていました。寛永7年(1630年)にこの生活が不便だとして、江戸鉄砲州(隅田川河口)干潟の埋め立てを願い入れ、そこに移り住みました。正保元年(1644年)この新しい島は、故郷の村名に因んで佃島と名付けられました。これが現在の東京都中央区佃島です。

漁民たちは江戸近辺の川や海で漁業し江戸城に収め、余った魚類は日本橋に店を出し、江戸の人々に売りました。後に日本橋の魚河岸へと発展します。

(つづく)

田蓑神社(その境内には東照宮があります)

いっしょに歩こう「佃地域編」(1)

NHK大河ドラマ「どうする家康」で今脚光を浴びている徳川家康、今回からは、その家康とゆかりのある佃地域にスポットをあてます。2021年11月号(機関紙「健康の友」第481号)で一度、佃地域を取材しましたが、今回は、さらに深掘りします。

地名の由来について

西淀川区には、姫島、竹島、御幣島、出来島、百島、中島など「島」という地名が非常に多くあります。これは、古代の大阪湾に淀川の大量の土砂が流れ込んでできた砂洲が大小の島々となり、「難波八十島」と呼ばれた時代の名残です。佃島も「難波八十島」の一つで昔、「田蓑島」と呼ばれていました。『西淀川区史』(発行:西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996年3月)によれば、「貞観年間(859〜876年)に佃村と改め、『田蓑庄』とも呼ばれたことに由来する」とあります。

また、『佃九十年史』(発行:大阪市立佃小学校 1964年2月)では、「東京の佃島住吉大明神の縁起書の中に、徳川家康公がこの島に来て漁業専門の漁師達に『漁業の合い間に農業も営むよう、またこの島の名称も今から佃村と呼びなさい』といわれたと書いてある」とあります。佃地域の言い伝えでも、「天正年間(1573〜1592年)に佃を訪れた家康が『漁業も大事だが、人はまず田で働け』と村民に言ったことから、にんべんに田をつけた『佃』に村の名前を改めた」とのことです。この説が正しければ、佃の名付け親は家康ということになりますね。

次号からは、田蓑神社(家康を祀る東照宮もある)などを佃支部のみなさんと取材していきますのでご期待ください。
(つづく)

いっしょに歩こう「大和田編」(2)

今回も照耀山善念寺(以下善念寺)に訪問し、八木真人住職ご夫妻にお話しをお伺いしました。

続・善念寺の文化財

現在にまで残る古文化財で、本堂に安置されている本尊阿弥陀如来は「正確な年月はわからないがかなり古く、400年以上たつ(安土桃山時代頃)のではないか」とのことです。蓮台※1は修復されています。戦中は疎開していたそうです。
また、親鸞聖人絵伝は、文化※28年(1811年)のもので浄土真宗本願寺派第十九代宗主・本如上人(1778〜1826・江戸時代中期〜後期の高僧)より授かったものとのことです。

※1 蓮台…仏像の台座のこと。
※2  文化…徳川十一代将軍家斉の時代です。

現在の善念寺の取り組み

2020年に「子ども食堂を立ち上げよう」という熱い想いをもった仲間が当寺に集まりました。本尊阿弥陀如来の「全ての人々を救う」という願いをこめて、南無阿弥陀仏の『南無』から「なもなも」と名付けられました。

同年10月、子どもたちに「音楽を届ける」プロジェクトのクラシックライブでのオープニングで発足し、活動されています。月2回、子ども食堂(現在、弁当を無料配布)や学習支援、子ども中心の料理教室「なもなもクッキング」、コンサート、けん玉教室&大会など多彩な活動をされています。

善念寺の周辺地図

いっしょに歩こう「大和田編」

善念寺での平和の鐘つき

今回は、千北支部の「平和の鐘つき」法要でお世話になっている照耀山善念寺(以下善念寺)を訪問し、八木真人住職ご夫妻に寺の歴史や現在の取り組みについてお話をお伺いしました。

善念寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、西成郡史【1915年(大正4年)大阪府西成郡役所 著】などによると「八木高重と云う人が本願寺蓮如上人(室町時代の浄土真宗の僧)の直弟子となり文明7年(1475年)に創建」されました。当初は、浄土真宗の道場であっただろうとのことですが、「寛永7年(1630年)5月17日に寺号を受け、本堂(戦災で焼失) は、天保14年(1843年)に創建」されました。
文明の時代とは、「一休和尚」の頃で、蓮如上人が吉崎御坊(福井県あわら市)を立てた頃です。寛永は、徳川三代将軍家光の時代です。

善念寺の文化財

現在にまで残る古文化財は、喚鐘・鐘楼・手洗石、室内では、本尊阿弥陀如来・親鸞聖人絵伝・御文章があります。なかでも喚鐘は、寛文九己酉年(1669年)四月十四日の銘があります。寛文とは、徳川四代将軍家綱や水戸黄門(徳川光圀)の時代です。当寺の歴史を感じる文化財です。

また、鐘楼も屋根を改築した昭和56年(1981年)に、棟木に宝永三年築(1706年)と書かれていたのが見つかったとのことで貴重な文化財です。鐘楼の四方にある柱も創建時の柱。宝永は、徳川五代将軍綱吉の時代、富士山や浅間山がこの頃噴火しています。鐘楼と対をなした太鼓楼も戦災を免れ存在していましたが、昭和25年(1950年)のジェーン台風で境内の銀杏の大木が太鼓楼の上に倒れ、惜しくも壊れてしまったそうです。

この他、鐘楼の東側にある手洗石は、尼講が寄贈された物で弘化四年(1847年)七月と刻まれています。弘化とは、あと20年余りで明治となる徳川十二代将軍家慶の時代です。(つづく)

善念寺の周辺地図

いっしょに歩こう「大野・百島編」

今回は、大野川緑陰道路(旧大野川)の対岸である大野を訪ねました。地名は、開発当時に「大いなる野原」であったことに由来します。江戸時代初期の正保年間(1644年〜47年)に播磨樋口村(兵庫県)の樋口伊兵衛が新田開発により耕地化してできた土地です。

しかしながら、海に面する土地で低湿地だったため野菜類や藁などの生産も出来にくく困っていたので、耕作の合間に漁業を行う「半農半漁」の地域として発展しました。船は大野川に停泊させ、戦前は漁師も多く、40〜50軒あり、主として淀川に出て漁を行なっていました。イナやボラ、スズキなどを捕り、シラウオ漁でも有名でした。

大野百島住吉神社

 まず、最初に訪れたのは、大野百島住吉神社です。正保元年(1644年)4月、この地が開発された時、村民の協力により住吉四神を守護神として創建されました。福住吉神社と同じく毎年、8月17日に豊漁を祈願する「豊漁祭」が行われていました。
境内には、天明元年(1781年)銘の石灯籠や昔、楠の大樹が社頭をおおい、生い茂っていたことがわかる枯損した古株が御神木としてまつられています。

日谷山乗願寺

 次に浄土真宗本願寺派の寺院である日谷山乗願寺を訪問しました。長澤住職にお話をお伺いしたところ、丹波の国の領主だったご先祖が関ケ原の合戦(1600年)の時、石田三成方(西軍)として戦い、兜に入れて持ち歩いたと言い伝えのある一寸八分の阿弥陀仏像が当寺には代々継承されており、拝見させていただくことができました。関ケ原の合戦後、大野の地に移住し乗願寺を創建されたとのことでした。乗願寺は毎年「平和の鐘つき」法要でお世話になっています。


大野百島住吉神社


日谷山乗願寺

(つづく)