鮒子多という姓について

前回は「判官(源義経)松の跡」について書きました。今回はその続きです。

「鮒子多」という名字を知っていますか?何と読むかご存じですか?そしてこの名字の方は現在何人くらいおられるのでしょうか?
まずこの名字は「ふじた」(又は、ふした)と読みます。そして大阪府茨木市に10人くらいしかいなのです。では、この名字が何に由来してできたのでしょうか。そのことを健康友の会千北支部の森脇氏に伺いました。

森脇氏の話しによると「平家討伐の折に台風で義経の船が漂着した時、大和田の庄屋(治郎左衛門)が鮒ふなの昆布巻きを献上しこまごまと生活の煩事を援助しました。喜んだ義経は食事の箸を地中に立ててその意を天に示した。どうしたことかみるみるうちに箸は松の姿になり生きかえり成長した。なおこの庄屋に「鮒子多」(ふじた、又はふした)の姓を与えたとも伝えられている。この松の木は年と共に天を突き沖を行きかう船人たちの指針として親しまれた」(摂津名所図会第3巻参照)ということです。

この松は明治10年に雷火のために不幸にも消失の災いに合いました。しかし、鮒子多の塚と墓は大和田6丁目に残っています。塚や墓に書かれた文字は「何を書いているかぜんぜん読まれへん」と森脇氏は嘆いておられましたが、平成6年9月に鮒子多姓の方が整地をされ綺麗になっています。「平家物語と大和田地域の繋がりっておもしろい。もっと調べてみたい」と森脇氏は言われました。

大和田6丁目の塚と墓

次回は野里地域について紹介します。

鮒子多の塚と墓(大和田6丁目)

判官(ほうがん)松の石碑

判官松伝承地を案内してくれた千北支部世話人の森脇保さん

今回から私が語る「西淀川・淀川のこの地・この史跡」を掲載します。第1回は、千北支部世話人の森脇保さんに大和田地域の「判官(ほうがん)松の石碑」を案内していただきました。

元暦2年(1185年)判官松の石碑は九郎判官義経は平家を四国に追い詰めた戦いで、大物の浦から軍船を出しましたが、突風にあおられて大和田の浜にうち寄せられました。その時に住吉大明神(大和田住吉神社)に航路の安全を祈願して一本の松の苗を手植えしたという話が残っています。しかし、その松は明治10年に雷火で焼失したそうです。

森脇さんといっしょに大和田住吉神社へ行き、判官松之跡や万葉の歌碑などを拝見し、宮司さんにもお会いしました。森脇さんが「判官松の史跡って、大和田住吉神社と大野せせらぎの里にも跡地があるが、どちらが本当の松があった場所なのか」と質問すると、宮司さんは「大野せせらぎの里が本当に松があった場所ですよ。ここの石碑は戦後に移設されたものです」とお話をされました。

そこで今度は大野せせらぎの里の横にある「判官松伝承地」に行きました。森脇さんは「ここが本当に松があった場所やて」「大和田住吉神社に行って良かった。どっちが本当に松のあった場所なのかわかったわ」と大変よろこんでいました。

大和田住吉神社

大野せせらぎの里