いっしょに歩こう「淀川・十三編」

今回から、淀川区を紹介していきます。

十三の地名の由来

十三の地名については諸説ありますが、昔、淀川の上流から数えて十三番目の渡し(渡船場) があったことから、「十三番目の渡し」がいつの間にか「十三」の地名になったと言われています。
また、なぜ《三》を《そう》と読むのかについては、日本では、古くから「ざ」「そう」「ぞう」などの俗読みがあり珍しいことではないようです。

十三渡し跡の碑

十三の渡し

淀川は、明治時代初期まで下流部でいくつも分流し、その一つとして現在の十三には中津川と呼ばれていた川が流れていました(新淀川の開削により消失)。江戸時代までに中津川南岸の成小路村(現在の新北野付近)と北岸の堀村(現在の十三本町付近)を結ぶ「十三の渡し」が設置されました。

成小路村は明治22年の町村制実施により、中津川南岸の村々と合併して西成郡中津村となりました。また、堀村は小島村や今里村など中津川北岸の村々と合併して神津村となります。

『西成郡史 大阪府西成郡役所編』(大正4年発行・復刻版昭和47年発行) によれば、「十三の渡、西国街道筋に当たり、西国諸侯の東する者多くは陸路ここへとり、はたご(旅館)二十余軒あり」と書かれています。

「十三の渡し」は、西国街道と大坂の市中をつなぐ重要な交通路であり、宿場町が形成されていました。明治7年(1874年)頃、「十三渡し」を経営していた橋本与三郎という方の届書には「運賃は人間1人2厘、牛馬1頭5厘、一日の売り上げ平均1円8銭」とあり、相当繁盛していた事がわかります。

渡しのたもとには通行客をもてなすための茶店が軒を連ね、その様子は『摂津名所図会大成』に「往還の旅人間断なし。名物焼餅を売る店多し」と書かれています。

明治11年に木造の十三橋(有料)が架橋され、渡し舟は消滅しました。その後、明治42年淀川大改修で最初の十三大橋が完成します。

現在の十三大橋

*1厘は1円の1000分の1
参考:『淀川区の史跡と伝承』(淀川区役所発行)・『東淀川区史』(東淀川区史編集委員会発行)