いっしょに歩こう「淀川・三国編」

今回は、淀川・三国を紹介します。

西三国/東三国/三国本町の地名由来

昔の大字蒲田の西部に「三国島」という小字地名がありました。蒲田は、もとこの辺りに蒲のはえた水田が多かったために由来します(一説には大願寺の所在地鎌田が変じて蒲田となったともいわれています)。1925年(大正14年)大阪市に編入後、阪急電車宝塚線の最寄り駅である当地を「三国駅」と定めたことに影響し、当駅に近い関係で当時の市会で蒲田町を「三国町」と修正したことに由来します。

また、三国本町も同様に三国駅に近い商工の町として「本町」の付称を用いたことに由来します。三国は、桓武天皇が長岡京造営の際に開削した神崎川を「三国川」と呼称したことに基づいています。

三国の渡し跡

三国の渡し

西三国に「三国橋」という橋があります。この三国橋が架かる以前に当地には、「三国の渡し」がありました。当地は、大坂(大阪)から前回掲載した「十三の渡し」を通り、池田・能勢方面へ通じる「能勢街道」と呼ばれる古い街道筋にあります。

ここに古い渡しが存在した記録として、室町時代に編纂された古典歴史文学で南北朝時代を描いた「太平記」巻38に「三国の渡し」が登場します。1362年(正平17年)に楠木・和田軍が摂津の国の守護の本拠を攻めようとした際、箕浦・佐々木軍(守護方)との争いの記事があります。
また、江戸期の渡しは能勢・池田地方の特産品が集められ、大坂市中へ荷を積みだす港として重要な地でした。

当時の江戸期の様子は、上方落語の有名な演目「池田の猪買い」にも「十三の渡し」とともに登場します。大坂から池田までは、北へ40キロの場所ですから徒歩で行っていた当時は、まさに遠出の旅行だったんだなと演目を聴いて感じます。

1873年(明治6年)の三国橋が、明治以降に神崎川に架橋された最初の橋で、その後、しばしば架け替えられます。1939年(昭和14年)に川の改修に伴い大規模な補修が行われました。1960年(昭和35年)鋼製の橋になり、その後、自動車交通の増加に伴い歩道橋が増設され現在に至ります。

現在の三国橋

※字:町や村の中の一区画(集落)
※大願寺:現在の東三国1丁目4番街区にある寺院
参考:「東淀川区史」(東淀川区史編集委員会発行)、大阪市公式ホームページ