いっしょに歩こう「佃地域編」(4)

田蓑神社(たみの じんじゃ)

田蓑神社拝殿

今回は、田蓑神社についてお話します。
田蓑神社略由緒によると神功皇后が新羅に出兵する際、住吉の大神を守り神として奉り、その帰途この地に立ち寄りました。その際に島の海士が白魚を献上し、その海士を奉ったとされています。その数百年後この地開拓の時、その海士が出現し「神功皇后の御船の鬼板を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよ」と申され、住吉三神と神功皇后を奉って869年に創建されました。

社名は時代と共に、田蓑嶋神社(田蓑嶋姫神社との説も)、住吉神社と変遷し、明治元年(1868年)に田蓑神社と改められました。
境内社には、東照宮(徳川家康公)・金比羅宮(大物主大神)・稲生社:宇賀御魂神(お稲荷さん)・七重之社:天照皇大神(お伊勢さん)・猿田彦命(みちびきの神)・事代主大神(えべっさん)・大国主大神(だいこくさん)・応神天皇(八幡さん)・少彦名大神(医薬の神)・菅原道真公(天神さん)が奉られています。

田蓑神社の狛犬

境内にある狛犬の中でも「御垣内の狛犬」は、1702年(元禄15年)正月17日に奉納され、大阪の石工によりつくられた狛犬(浪速狛犬)としては、最も古いものとされています。

また、「拝殿前の狛犬」は、あるテレビ番組の視聴者FAX投稿で「田蓑神社の狛犬の足をなでて祈願し参拝したところ、宝くじの高額当選を2度した」と紹介され、金運のパワースポットとして取り上げられたそうです。宮司さんによると「放映後から問い合わせあるが、投稿したご本人よりお話を伺っていないので詳細はわからない」とのこと。しかし、「狛犬の足を撫でたから宝くじに当たったというよりも、毎日狛犬の足を撫でる位に御祈願されたことで神様のお恵みを受けられたのでは」とのお話でした。

(つづく)

いっしょに歩こう「佃地域編」(3)

佃村・大和田村の漁業

前回「佃の漁民と徳川家康」について掲載しました。佃村は、大和田村とともに江戸時代には漁業が盛んな地域でした。エブナ(ボラの幼魚)はその味が特に優れていたので、多くの寿司に使われていたようです。また、シラウオやイカナゴなどがよくとれたそうです。

神崎川 佃防災船着場佃村・大和田村の漁民は、徳川家康との特別な縁故から慶長十八年(1613年)に江戸(現在の東京)の浅草川と稲毛川の禁止区域を除く、全国のどこの川や海でも漁業する特権を得ていました。江戸時代、佃村・大和田村は、西成郡に属して・大野村(現西淀川区)・野田村(現福島区)・九條村(現西区)・難波村(現中央区)の5漁村の組合には属さず、漁にかかる税も払わなくてよいとされていました(運上銀の免除)。

このことから漁民たちは佃近海の河川にとどまらず、明石や瀬戸内海、土佐湾にまで出かけて漁をしていました。近隣では、尼崎・西宮・堺など他地域との漁業上の紛争もたびたび起りましたが、この特権は、幕末まで効力を発揮し、有利に裁かれたようです。これにより佃村は、一時期、佃千軒と言われるほどの大集落となり繁栄しました。

佃の漁民が現在の私たちに残してくれた食べ物で最も身近なものは、何といっても佃煮です。佃煮は、魚や昆布を醤油と砂糖で煮しめた食べ物です。佃の漁民が工夫を重ねて作り出したものです。そんな歴史を感じながら、今夜のお食事に味わってはいかがでしょうか。

神崎川 佃防災船着場

 

いっしょに歩こう「佃地域編」(2)

佃の漁民と徳川家康

佃1丁目にある田蓑神社。その境内には家康を祀る東照宮があります。前回掲載の「佃漁民ゆかりの地」の碑も建立されており、家康と佃地域の結びつきが深いことがわかります。

田蓑神社内 家康を祀る東照宮

『西淀川区史』(発行: 西淀川区制七十周年記念事業実行委員会・1996年)などによれば、天正年間(1580年代・1586年)に家康が浜松城から上洛し、多田神社(兵庫県川西市)に参拝したことがありました。その時、家康一行が神崎川を渡ろうとしたのですが、渡船がありませんでした。そこで、家康が佃村と隣村の大和田村の漁民に漁船の提供を命令指示して川を渡ったそうです。

これがきっかけとなり以後、家康と佃漁民との交流がはじまり、家康が伏見城在城の時は、西宮や明石など西国の海上の隠密を担っていました。「大阪冬の陣・夏の陣」では軍船(武器などを運送)や魚の調達などを担い、徳川方に味方しました。

これらの功績から慶長17年【1612年・(天正18年〈1590年〉説もある)】に徳川二代将軍秀忠が江戸在城の時、安藤対馬守の命令で佃・大和田村の漁師ら34人が江戸に呼び寄せられ、安藤対馬守宅らの屋敷で暮らすことになり、白魚漁をして将軍に献上するようになりました。
その後、佃・大和田村の漁民は当初、毎年11月〜翌3月迄漁業を行い、春の農繁期に故郷(佃) に帰っていました。寛永7年(1630年)にこの生活が不便だとして、江戸鉄砲州(隅田川河口)干潟の埋め立てを願い入れ、そこに移り住みました。正保元年(1644年)この新しい島は、故郷の村名に因んで佃島と名付けられました。これが現在の東京都中央区佃島です。

漁民たちは江戸近辺の川や海で漁業し江戸城に収め、余った魚類は日本橋に店を出し、江戸の人々に売りました。後に日本橋の魚河岸へと発展します。

(つづく)

田蓑神社(その境内には東照宮があります)

いっしょに歩こう「佃地域編」(1)

NHK大河ドラマ「どうする家康」で今脚光を浴びている徳川家康、今回からは、その家康とゆかりのある佃地域にスポットをあてます。2021年11月号(機関紙「健康の友」第481号)で一度、佃地域を取材しましたが、今回は、さらに深掘りします。

地名の由来について

西淀川区には、姫島、竹島、御幣島、出来島、百島、中島など「島」という地名が非常に多くあります。これは、古代の大阪湾に淀川の大量の土砂が流れ込んでできた砂洲が大小の島々となり、「難波八十島」と呼ばれた時代の名残です。佃島も「難波八十島」の一つで昔、「田蓑島」と呼ばれていました。『西淀川区史』(発行:西淀川区制七十周年記念事業実行委員会 1996年3月)によれば、「貞観年間(859〜876年)に佃村と改め、『田蓑庄』とも呼ばれたことに由来する」とあります。

また、『佃九十年史』(発行:大阪市立佃小学校 1964年2月)では、「東京の佃島住吉大明神の縁起書の中に、徳川家康公がこの島に来て漁業専門の漁師達に『漁業の合い間に農業も営むよう、またこの島の名称も今から佃村と呼びなさい』といわれたと書いてある」とあります。佃地域の言い伝えでも、「天正年間(1573〜1592年)に佃を訪れた家康が『漁業も大事だが、人はまず田で働け』と村民に言ったことから、にんべんに田をつけた『佃』に村の名前を改めた」とのことです。この説が正しければ、佃の名付け親は家康ということになりますね。

次号からは、田蓑神社(家康を祀る東照宮もある)などを佃支部のみなさんと取材していきますのでご期待ください。
(つづく)

いっしょに歩こう「大和田編」(2)

今回も照耀山善念寺(以下善念寺)に訪問し、八木真人住職ご夫妻にお話しをお伺いしました。

続・善念寺の文化財

現在にまで残る古文化財で、本堂に安置されている本尊阿弥陀如来は「正確な年月はわからないがかなり古く、400年以上たつ(安土桃山時代頃)のではないか」とのことです。蓮台※1は修復されています。戦中は疎開していたそうです。
また、親鸞聖人絵伝は、文化※28年(1811年)のもので浄土真宗本願寺派第十九代宗主・本如上人(1778〜1826・江戸時代中期〜後期の高僧)より授かったものとのことです。

※1 蓮台…仏像の台座のこと。
※2  文化…徳川十一代将軍家斉の時代です。

現在の善念寺の取り組み

2020年に「子ども食堂を立ち上げよう」という熱い想いをもった仲間が当寺に集まりました。本尊阿弥陀如来の「全ての人々を救う」という願いをこめて、南無阿弥陀仏の『南無』から「なもなも」と名付けられました。

同年10月、子どもたちに「音楽を届ける」プロジェクトのクラシックライブでのオープニングで発足し、活動されています。月2回、子ども食堂(現在、弁当を無料配布)や学習支援、子ども中心の料理教室「なもなもクッキング」、コンサート、けん玉教室&大会など多彩な活動をされています。

善念寺の周辺地図