淀川の向こう側と西成大橋でつながっていた

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(F) 鼻川神社・西成大橋親柱(おやばしら)の碑

社伝によれば神じん功ぐう皇后が茨木県の鹿島に行く際に立ち寄り、付近の住民たちが「柏の葉」に載せた餅を献上しました。皇后は当地が無名であると聞いて、川の対岸に突出した「鼻」のような地形であったので地名を「はなかわ」としました。
また1909年(明治42年)に新淀川が完成しましたが、その際に架けられたのが西成大橋で、「親おや柱ばしらの碑」が鼻川神社にあります。現在の梅田街道に通じ、梅田方面から西淀川区に入る玄関口でもありました。淀川の向こう側にある八坂神社にも「西成大橋の親柱(おやばしら)の碑」があります。

旧中津川の右岸跡と左岸跡が残っている

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(E) 野里住吉神社・旧中津川右岸堤防の跡

野里住吉神社の「一夜官女祭」は、4月号に詳しく掲載しましたのでご覧ください。この神社の東側が少し小高くなっていますが、旧中津川右岸の跡になっています。

(G)旧中津川左岸の堤防跡とクロガネモチ

柏里一丁目のこの場所は1896年(明治29年)〜1910年(明治43年)の淀川改修工事によって埋め立てられた旧中津川左岸堤防の位置になります。堤防に自生したクロガネモチ(2003年に「緑の遺産」として大阪市保存樹に指定)も生き残っています。

「野里の渡し」左岸の跡はどこ?

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(D)槲(かしわ)の橋跡、野里の渡し跡

新淀川改修以前の中津川はこの付近を流れ「野里の渡し」が置かれていて最初は渡し船が出ていました。1876年(明治9年)には「槲(かしわ)の橋」という有料の木橋が架けられ、この橋は中津川が埋め立てられる1906年(明治39年)ころまであったそうです。
なお「野里の渡し」の左岸跡は、柏里小学校の北東あたりにあったと言われていますが、実際は分からなくなっています。

知ってますか?2つの霊験あらたかな北向地蔵があるのを

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2つの北向地蔵

みなさんは北向地蔵という存在はご存じですか?阪急梅田駅の紀伊國屋書店近くにある北向地蔵はとても霊験あらたからしく、年間200万円ものお賽銭が集まるそうです。
そこの北向地蔵の説明を読みますと中国では「王者南面」と言われ偉い人は北側から南に向かっているそうです。家来や身分の低い人は王者に向かっていいますが、北向地蔵は民衆と共に南側に立って北を向き世の中を見ているとも言われ、全国に約500万体とも言われる地蔵のうち約400体くらいしかないと言われるくらい貴重なものです。その民衆の立場に立つ北向地蔵が柏里と野里に2つもあるのです。

一つめの「(B)北向地蔵尊(柏里子安延命地蔵尊)」は柏里市営第1住宅4号棟の敷地内にあり、少し行くとふたつめの「(C)北向地蔵(子安地蔵)」が野里1丁目24番にあります。ぜひ、この二つについては由来が書かれた看板がありますので、現地におもむいてお読みください(場所は地図をご覧ください)。

(B)北向地蔵尊(柏里子安延命地蔵尊)

(C)北向地蔵(子安地蔵)

野里住吉神社「一夜官女祭」

今回は野里住吉神社の「一夜官女祭」について、6歳のころに一夜官女に選ばれた今村久美子さんと共に神社に伺いお話を聞いてきました。

6歳の頃の今村(旧姓:井上)久美子さん

「一夜官女祭」(大阪府無形文化財)は毎年2月20日(旧暦1月20日)に行われています。かつて野里村は「泣き村」と呼ばれ風水害や疫病に見舞われた時代があり、村人たちは「村を救うために乙女を神に捧げよ」という神託を聞き、「旧暦1月20日に白矢の打ち込まれた家の娘を生贄として神に捧げた」そうです。

村を通りかかった武者修行中の岩見重太郎が「神は人を救うが人に犠牲は求めない」と述べて乙女の身代わりになり、神のふりをしていた狒々(ヒヒ)を退治したという話が伝わっています。(なお、かつて乙女たちが運ばれた場所は社殿裏の「龍の池」で、その池は現在は埋まり、跡地に乙女塚が建てられています。)

昔は池だった場所は、埋め立てて「乙女塚」になっています

現在も一夜官女に選ばれた7人の少女とお付きが、その年の「宿」で当矢の式(親子の別れの盃)を行い、その後に街を練り歩いて神社へ向かいます。今村さんもお化粧をしてもらい、白い着物に赤い袴を着け、頭にキラキラ輝く冠をのせてもらった思い出を語ってくれました。

とても寒い日で着物が風にあおられフラフラして歩き、神事の時も冠が傾いてきて寒くて震えていたそうです。由来は悲しい歴史の御神事ですが、今は地域の安全と幸せを願う華やかな祭事になっています。