いっしょに歩こう(野里・柏里編)

コロナ禍で「友達に会わなくなってしまった」とか「子どもから家をあまり出ないで」と言われているとかで、行動範囲がせばまり「楽しみが何もなくなってきた」と思っておられる人も増えています。

そんな中で、一人でも西淀川・淀川を再発見する取り組みをしてみようと、これまで3面に載せていた「いっしょに歩こう 西淀川・淀川のこの地・この史跡」で、今回は明治時代に旧中津川が流れていた野里・柏里地域を訪問しました。

今回のルートマップです。

知ってますか?2つの霊験あらたかな北向地蔵があるのを(B)(C)

「野里の渡し」左岸の跡はどこ?(D)

旧中津川の右岸跡と左岸跡が残っている(E)(G)

淀川の向こう側と西成大橋でつながっていた(F)

このようなコースが西淀川・淀川にいくつもあります。コロナの影響が小さくなって自由に外へ出られるようになれば、みなさんも歩いてみてはいかがですか。

淀川の向こう側と西成大橋でつながっていた

ルートマップへ

(F) 鼻川神社・西成大橋親柱(おやばしら)の碑

社伝によれば神じん功ぐう皇后が茨木県の鹿島に行く際に立ち寄り、付近の住民たちが「柏の葉」に載せた餅を献上しました。皇后は当地が無名であると聞いて、川の対岸に突出した「鼻」のような地形であったので地名を「はなかわ」としました。
また1909年(明治42年)に新淀川が完成しましたが、その際に架けられたのが西成大橋で、「親おや柱ばしらの碑」が鼻川神社にあります。現在の梅田街道に通じ、梅田方面から西淀川区に入る玄関口でもありました。淀川の向こう側にある八坂神社にも「西成大橋の親柱(おやばしら)の碑」があります。

旧中津川の右岸跡と左岸跡が残っている

ルートマップへ

(E) 野里住吉神社・旧中津川右岸堤防の跡

野里住吉神社の「一夜官女祭」は、4月号に詳しく掲載しましたのでご覧ください。この神社の東側が少し小高くなっていますが、旧中津川右岸の跡になっています。

(G)旧中津川左岸の堤防跡とクロガネモチ

柏里一丁目のこの場所は1896年(明治29年)〜1910年(明治43年)の淀川改修工事によって埋め立てられた旧中津川左岸堤防の位置になります。堤防に自生したクロガネモチ(2003年に「緑の遺産」として大阪市保存樹に指定)も生き残っています。

「野里の渡し」左岸の跡はどこ?

ルートマップへ

(D)槲(かしわ)の橋跡、野里の渡し跡

新淀川改修以前の中津川はこの付近を流れ「野里の渡し」が置かれていて最初は渡し船が出ていました。1876年(明治9年)には「槲(かしわ)の橋」という有料の木橋が架けられ、この橋は中津川が埋め立てられる1906年(明治39年)ころまであったそうです。
なお「野里の渡し」の左岸跡は、柏里小学校の北東あたりにあったと言われていますが、実際は分からなくなっています。

知ってますか?2つの霊験あらたかな北向地蔵があるのを

ルートマップへ

2つの北向地蔵

みなさんは北向地蔵という存在はご存じですか?阪急梅田駅の紀伊國屋書店近くにある北向地蔵はとても霊験あらたからしく、年間200万円ものお賽銭が集まるそうです。
そこの北向地蔵の説明を読みますと中国では「王者南面」と言われ偉い人は北側から南に向かっているそうです。家来や身分の低い人は王者に向かっていいますが、北向地蔵は民衆と共に南側に立って北を向き世の中を見ているとも言われ、全国に約500万体とも言われる地蔵のうち約400体くらいしかないと言われるくらい貴重なものです。その民衆の立場に立つ北向地蔵が柏里と野里に2つもあるのです。

一つめの「(B)北向地蔵尊(柏里子安延命地蔵尊)」は柏里市営第1住宅4号棟の敷地内にあり、少し行くとふたつめの「(C)北向地蔵(子安地蔵)」が野里1丁目24番にあります。ぜひ、この二つについては由来が書かれた看板がありますので、現地におもむいてお読みください(場所は地図をご覧ください)。

(B)北向地蔵尊(柏里子安延命地蔵尊)

(C)北向地蔵(子安地蔵)