いっしょに歩こう「新北野編」

弾痕が残るメモリアルウォール

今回は、淀川区新北野にある大阪府立北野高等学校の旧校舎本館西壁(メモリアルウォール)のアジア太平洋戦争空襲による弾痕と殉難乃碑について紹介します。

記事の作成に当たっては、北野高校卒業生の門谷充男さん(社会福祉法人西淀川福祉会理事長)とともに昨年12月同校を訪問し、石田和弘教頭先生にご案内いただきました。

アジア太平洋戦争中の大阪は、1944年12月以降1945年8月15日の終戦まで50回を超える空襲を受けました。

1944年夏頃より空襲を避けるため学童疎開がはじまり、国民学校の児童は、地方に疎開しましたが、旧制中学校のほとんどは授業が行われず、3年生以上は軍需工場で働かされ、1、2年生は、食料増産のため農場などで勤労奉仕、または、学校防衛にあたっていました。

このような中で、淀川区域では、1945年3月と6月にあわせて4回の大きな空襲がありました。とりわけ6月15日の米軍爆撃機B29 /449機による大空襲では、多くの犠牲者がでました。北野高校の前身である旧制北野中学校では、学校防衛中の生徒2人がなくなるなどの大きな被害がでました。

1986年、犠牲になった生徒2人の同級生の人たちが追善供養のために北野高校校庭に「殉難乃碑」を建立しました。「殉難乃碑」の裏には、ご遺族の方の文章と詩が寄せられています。

旧校舎本館西壁には、空襲時の米軍戦闘機グラマン機の機銃掃射の28個の弾痕が残り、機銃掃射の激しさを今に伝えています。この弾痕は校舎の改築工事の際、「後世にこの惨禍を伝えていくために」と教職員・同窓生が尽力して保存され、「メモリアルウォール」と呼ばれています。

ウクライナ、ガザで戦禍が続き子どもたちの命が奪われ続けている今、身近な戦争の跡は平和の尊さを私たちに訴えかけてきます。

「殉難乃碑」裏面に刻まれたご遺族の文章
(原文ママ)

6月14日の朝、ゲートルを巻きながら、今夜当番をしてあす朝帰ってきたらお母さんに、パンを取ってきてあげるよといひますから、それはどうしたパンなのかと聞きますと、夜警するからパンが配給になると言います。またそんなことをいふ、一晩中夜警するので其の為に下さるパンは、必ず食べねばいかん、それを食べなんだらお腹がすいて、まさかの時お役に立たない、食べなさいといったら、笑ひながらもう一つよいことがある、今日からお米の配給もあるのでそれもあげられると、嬉しそうに挙手の礼をし、行って来ますと出かけました。死んだとき、私が学校で彼のカバンを見ましたら、パン二個とハンカチに包んだ米とが入っていました。

いっしょに歩こう「淀川・十三編」

今回から、淀川区を紹介していきます。

十三の地名の由来

十三の地名については諸説ありますが、昔、淀川の上流から数えて十三番目の渡し(渡船場) があったことから、「十三番目の渡し」がいつの間にか「十三」の地名になったと言われています。
また、なぜ《三》を《そう》と読むのかについては、日本では、古くから「ざ」「そう」「ぞう」などの俗読みがあり珍しいことではないようです。

十三渡し跡の碑

十三の渡し

淀川は、明治時代初期まで下流部でいくつも分流し、その一つとして現在の十三には中津川と呼ばれていた川が流れていました(新淀川の開削により消失)。江戸時代までに中津川南岸の成小路村(現在の新北野付近)と北岸の堀村(現在の十三本町付近)を結ぶ「十三の渡し」が設置されました。

成小路村は明治22年の町村制実施により、中津川南岸の村々と合併して西成郡中津村となりました。また、堀村は小島村や今里村など中津川北岸の村々と合併して神津村となります。

『西成郡史 大阪府西成郡役所編』(大正4年発行・復刻版昭和47年発行) によれば、「十三の渡、西国街道筋に当たり、西国諸侯の東する者多くは陸路ここへとり、はたご(旅館)二十余軒あり」と書かれています。

「十三の渡し」は、西国街道と大坂の市中をつなぐ重要な交通路であり、宿場町が形成されていました。明治7年(1874年)頃、「十三渡し」を経営していた橋本与三郎という方の届書には「運賃は人間1人2厘、牛馬1頭5厘、一日の売り上げ平均1円8銭」とあり、相当繁盛していた事がわかります。

渡しのたもとには通行客をもてなすための茶店が軒を連ね、その様子は『摂津名所図会大成』に「往還の旅人間断なし。名物焼餅を売る店多し」と書かれています。

明治11年に木造の十三橋(有料)が架橋され、渡し舟は消滅しました。その後、明治42年淀川大改修で最初の十三大橋が完成します。

現在の十三大橋

*1厘は1円の1000分の1
参考:『淀川区の史跡と伝承』(淀川区役所発行)・『東淀川区史』(東淀川区史編集委員会発行)