いっしょに歩こう 姫島地域編(大和田街道の続き)

珍しい「反った鳥居」のある姫嶋神社

この日は姫嶋神社の禰宜(ねぎ)の奥さんにお話を伺いました。「この神社は戦争で全て焼けてしまったのです。楠だけが焼け残って、そこに三本の楠を植えてくださり、根と根が結ばれ倒れずに4本ともご神木になっています」と話をしてくれました。この三本の楠を「結びの木」といっているそうです。蛇神が祀られている楠社は再生の象徴である蛇の信仰も合わさり「再出発の木」とも言われています。

また神社のご祭神はアカルヒメノミコトで「決断と行動の神様」として信仰されてきたそうです。空襲で姫島の約4割が被害にあい、戦火の為に社殿、宝物、過去の文献などすべてを焼失、何もない状態からの出発となったことから「やりなおし神社」とも言われ、「やりなおし祈祷」をおついたち(毎月1日)だけに行なっています。なんと北海道など全国から来られるそうです。そして禰宜の奥さんは、「ここは家族で運営しています。今の禰宜(ねぎ)が御朱印を変え、『神を知ってもらうこと』を大切にしてこられたのが、今の姫嶋神社をつくってきた力になったようです」と言われました。

そしていっしょに行った、はっぴぃひめじま支部世話人の糠野さんが「帆立絵馬」と「断ち玉」について話をしてくれました。「縁起のいい帆立」を絵馬にすることで新しいスタートが順風満帆に進むそうですし、夢や願いをかなえる為に断ち切らなければいけない事や物を念じ、念じた玉を「はじまりの碑」の上部に空いた穴を通すことで封じ込めておくものだそうです。本当にたくさんの言い伝えがあります。ぜひ一度姫嶋神社に行ってみましょう。

最後に「中島大水道跡の碑」(千舟一丁目の緑陰道路内)をたずねました。中島大水道は大道村(現在の東淀川区大道町)の庄屋澤田久左衛門ほかの首唱により、沿岸村民一致の努力と多大の犠牲のもとに、東淀川区淡路本町2丁目から西淀川区福町までの間、延宝6年に開削されたと伝えられます。その後、明治30年から40年にかけて行われた淀川改修工事に伴い、神崎川支流であった大野川と合流し、地域の人に多大なる恩恵をあたえてきました。しかし、近年河川としての機能を失うに至り、下流の大野川とあわせて埋め立てられ、緑豊かな歩行者・自転車専用道路としてよみがえりました。

次回は、御幣島の地域に行きます。お楽しみに…。

 

いっしょに歩こう 姫島地域編(大和田街道の続き)

姫島住民は遍満寺を「西の寺」と呼んでいます

今回は大和田街道を柏里・野里地域から姫島地域に入って進んでいきます。明治から昭和の戦前までの姫島地域は大和田街道を中心に大変栄えていたそうです。今回は、この地域を健康友の会はっぴぃひめじま支部の糠野さんと訪問しました。

戦争中この地域はひどい被害にあったそうです。昔からの家で町会長もやられて頑張っている鎌田酒食品店の店主は、「家の前の道がアメリカの機銃掃射でほんまにひどかった。わしらは防空壕に入って、ほんまに大変やったんや」と言われるくらい酷い状況だったようです。

さて、その鎌田酒食品店の近くに慈雲寺と遍満寺があります。今回はその二つを訪問しました。慈雲寺(姫島1-24-26)は1580年ごろがはじまりで、江戸時代は天満別院となり、現在の本堂に建て替えたのが昭和50年くらいだそうです。
宝物としてある親鸞聖人直筆の大経三願文や鎌倉期の釈迦十六善伸像は、京都や奈良の国立博物館に預けられているそうです。本堂の庭には大きなソテツがあります。一度見せてもらえるといいですね。
そして、姫島住民は慈雲寺を「東の寺」と呼んでいました。

次に遍満寺(姫島4-8-1)に行きました。遍満寺は戦争で天子堂だけが焼け残って、本堂などは立て替えられました。しかし、戦争中金属類回収令で持っていかれそうになった本像(釈迦如来像)を前の住職の力で守り今も本堂におかれています。
また、この寺では8月1日から31日まで、朝6時~6時30分に「朝の会」を開いており子どもと大人が70~80人集まって来られるそうです。
そして、姫島住民は遍満寺を「西の寺」と呼んでいます。

また、戦前からこの2つの寺は、西成郡第5区の第3番校(慈雲寺)と第4番校(遍満寺)としてお寺の本堂で学習をしており、これが大阪市立姫島小学校の前身と言われています。

次回は、この続きである姫島神社から緑陰道路へと進みます。


慈雲寺「東の寺」


遍満寺「西の寺」