いっしょに歩こう「大和田編」(2)

今回も照耀山善念寺(以下善念寺)に訪問し、八木真人住職ご夫妻にお話しをお伺いしました。

続・善念寺の文化財

現在にまで残る古文化財で、本堂に安置されている本尊阿弥陀如来は「正確な年月はわからないがかなり古く、400年以上たつ(安土桃山時代頃)のではないか」とのことです。蓮台※1は修復されています。戦中は疎開していたそうです。
また、親鸞聖人絵伝は、文化※28年(1811年)のもので浄土真宗本願寺派第十九代宗主・本如上人(1778〜1826・江戸時代中期〜後期の高僧)より授かったものとのことです。

※1 蓮台…仏像の台座のこと。
※2  文化…徳川十一代将軍家斉の時代です。

現在の善念寺の取り組み

2020年に「子ども食堂を立ち上げよう」という熱い想いをもった仲間が当寺に集まりました。本尊阿弥陀如来の「全ての人々を救う」という願いをこめて、南無阿弥陀仏の『南無』から「なもなも」と名付けられました。

同年10月、子どもたちに「音楽を届ける」プロジェクトのクラシックライブでのオープニングで発足し、活動されています。月2回、子ども食堂(現在、弁当を無料配布)や学習支援、子ども中心の料理教室「なもなもクッキング」、コンサート、けん玉教室&大会など多彩な活動をされています。

善念寺の周辺地図

いっしょに歩こう「大和田編」

善念寺での平和の鐘つき

今回は、千北支部の「平和の鐘つき」法要でお世話になっている照耀山善念寺(以下善念寺)を訪問し、八木真人住職ご夫妻に寺の歴史や現在の取り組みについてお話をお伺いしました。

善念寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、西成郡史【1915年(大正4年)大阪府西成郡役所 著】などによると「八木高重と云う人が本願寺蓮如上人(室町時代の浄土真宗の僧)の直弟子となり文明7年(1475年)に創建」されました。当初は、浄土真宗の道場であっただろうとのことですが、「寛永7年(1630年)5月17日に寺号を受け、本堂(戦災で焼失) は、天保14年(1843年)に創建」されました。
文明の時代とは、「一休和尚」の頃で、蓮如上人が吉崎御坊(福井県あわら市)を立てた頃です。寛永は、徳川三代将軍家光の時代です。

善念寺の文化財

現在にまで残る古文化財は、喚鐘・鐘楼・手洗石、室内では、本尊阿弥陀如来・親鸞聖人絵伝・御文章があります。なかでも喚鐘は、寛文九己酉年(1669年)四月十四日の銘があります。寛文とは、徳川四代将軍家綱や水戸黄門(徳川光圀)の時代です。当寺の歴史を感じる文化財です。

また、鐘楼も屋根を改築した昭和56年(1981年)に、棟木に宝永三年築(1706年)と書かれていたのが見つかったとのことで貴重な文化財です。鐘楼の四方にある柱も創建時の柱。宝永は、徳川五代将軍綱吉の時代、富士山や浅間山がこの頃噴火しています。鐘楼と対をなした太鼓楼も戦災を免れ存在していましたが、昭和25年(1950年)のジェーン台風で境内の銀杏の大木が太鼓楼の上に倒れ、惜しくも壊れてしまったそうです。

この他、鐘楼の東側にある手洗石は、尼講が寄贈された物で弘化四年(1847年)七月と刻まれています。弘化とは、あと20年余りで明治となる徳川十二代将軍家慶の時代です。(つづく)

善念寺の周辺地図

鮒子多という姓について

前回は「判官(源義経)松の跡」について書きました。今回はその続きです。

「鮒子多」という名字を知っていますか?何と読むかご存じですか?そしてこの名字の方は現在何人くらいおられるのでしょうか?
まずこの名字は「ふじた」(又は、ふした)と読みます。そして大阪府茨木市に10人くらいしかいなのです。では、この名字が何に由来してできたのでしょうか。そのことを健康友の会千北支部の森脇氏に伺いました。

森脇氏の話しによると「平家討伐の折に台風で義経の船が漂着した時、大和田の庄屋(治郎左衛門)が鮒ふなの昆布巻きを献上しこまごまと生活の煩事を援助しました。喜んだ義経は食事の箸を地中に立ててその意を天に示した。どうしたことかみるみるうちに箸は松の姿になり生きかえり成長した。なおこの庄屋に「鮒子多」(ふじた、又はふした)の姓を与えたとも伝えられている。この松の木は年と共に天を突き沖を行きかう船人たちの指針として親しまれた」(摂津名所図会第3巻参照)ということです。

この松は明治10年に雷火のために不幸にも消失の災いに合いました。しかし、鮒子多の塚と墓は大和田6丁目に残っています。塚や墓に書かれた文字は「何を書いているかぜんぜん読まれへん」と森脇氏は嘆いておられましたが、平成6年9月に鮒子多姓の方が整地をされ綺麗になっています。「平家物語と大和田地域の繋がりっておもしろい。もっと調べてみたい」と森脇氏は言われました。

大和田6丁目の塚と墓

次回は野里地域について紹介します。

鮒子多の塚と墓(大和田6丁目)

判官(ほうがん)松の石碑

判官松伝承地を案内してくれた千北支部世話人の森脇保さん

今回から私が語る「西淀川・淀川のこの地・この史跡」を掲載します。第1回は、千北支部世話人の森脇保さんに大和田地域の「判官(ほうがん)松の石碑」を案内していただきました。

元暦2年(1185年)判官松の石碑は九郎判官義経は平家を四国に追い詰めた戦いで、大物の浦から軍船を出しましたが、突風にあおられて大和田の浜にうち寄せられました。その時に住吉大明神(大和田住吉神社)に航路の安全を祈願して一本の松の苗を手植えしたという話が残っています。しかし、その松は明治10年に雷火で焼失したそうです。

森脇さんといっしょに大和田住吉神社へ行き、判官松之跡や万葉の歌碑などを拝見し、宮司さんにもお会いしました。森脇さんが「判官松の史跡って、大和田住吉神社と大野せせらぎの里にも跡地があるが、どちらが本当の松があった場所なのか」と質問すると、宮司さんは「大野せせらぎの里が本当に松があった場所ですよ。ここの石碑は戦後に移設されたものです」とお話をされました。

そこで今度は大野せせらぎの里の横にある「判官松伝承地」に行きました。森脇さんは「ここが本当に松があった場所やて」「大和田住吉神社に行って良かった。どっちが本当に松のあった場所なのかわかったわ」と大変よろこんでいました。

大和田住吉神社

大野せせらぎの里