いっしょに歩こう 御幣島地域編

難波八十島の名残を求めて
〜その名も御幣島、神代の昔から〜

八十島祭が行われた住吉神社跡

今回は御幣島支部の世話人のみなさん5人と御幣島・竹島地域を訪問しました。

御幣島地域は平安時代に八十島祭を行い、浄土真宗を再興した蓮如(れんにょ)上人、武内宿禰(たけのうちのすくね)(景行天皇から5代の天皇に仕え、300年生きたと伝説の人物)の墓があったり、その末裔の紀貞之(きのさだゆき)がお寺の建立に関わったなど有名な場所があります。今回は「住吉神社跡碑」と「浄土真宗本願寺派」の光明寺を訪れました。

まず、「住吉神社跡碑」を訪れました。この地にあった神社が明治42年(1909年)に、加島の香具波志(かぐはし)神社に合祀されました。昔はこの場所で八十島祭などにぎやかに行われていたのでしょう。

次に、光明寺に向かいました。この寺は浄土真宗本願寺派で、山号(さんごう)(※1)は幣帛山(へいはくさん)といいます。武内宿禰の子孫と称する紀貞之が本願寺の蓮如上人に帰依して嘉吉2年(1442年)に創建されたという由緒あるお寺です。

また、同じ境内に土佐日記などで有名な紀貫之(きのつらゆき)(武内宿禰の子孫)の歌碑「ふる雪に木々の梢をながむれば しろたえなりや みてくらのしま」の歌碑があります。
さらに、一休和尚(一休宗純1394〜1481禅僧)がたびたび泊まったと言われ、和尚の碑と自画賛の一軸(非公開)が残されています。

お墓の奥には、武内宿禰と子孫の紀定盛(きのさだもり)のとても古い墓があります。ご住職は「2基のお墓が立っていますが、どちらが宿禰でどちらが定盛のものかはわかりませんが、ロマンを大事にしてほしいです」とおっしゃっていました。

古い墓、どちらが宿禰かな

更にこの寺の本堂は、昭和2年に奥丹後の地震により倒壊し、昭和30年の仮本堂の竣工迄ご本尊は庫裡(くり)(※2)に移されていました。昭和42年「本堂の建立を」との議が檀信徒(だんしんと)(※3)の間に広がり、昭和44年末に本堂の竣工を見ることとなります。

このように地域でとても大事なお寺なのです。地域の皆さんにも知って頂き、お立ち寄りいただきたいです。
長く御幣島に住んで居ても「知らないことが多い」が参加者一同の実感でした。

※1 寺院の名前の上に付ける称号
※2 住職やその家族の住む場所
※3 檀家とはその寺にお墓を持っている家のことをいい、信徒とはそのお寺にお墓はないけれども、葬儀、法事などをおまかせする人のことをいっていることが多いようです。

住吉神社跡 西淀川区御幣島4-14-9

光明寺 西淀川区御幣島4-14-12