いっしょに歩こう 姫島地域編(大和田街道の続き)

姫島住民は遍満寺を「西の寺」と呼んでいます

今回は大和田街道を柏里・野里地域から姫島地域に入って進んでいきます。明治から昭和の戦前までの姫島地域は大和田街道を中心に大変栄えていたそうです。今回は、この地域を健康友の会はっぴぃひめじま支部の糠野さんと訪問しました。

戦争中この地域はひどい被害にあったそうです。昔からの家で町会長もやられて頑張っている鎌田酒食品店の店主は、「家の前の道がアメリカの機銃掃射でほんまにひどかった。わしらは防空壕に入って、ほんまに大変やったんや」と言われるくらい酷い状況だったようです。

さて、その鎌田酒食品店の近くに慈雲寺と遍満寺があります。今回はその二つを訪問しました。慈雲寺(姫島1-24-26)は1580年ごろがはじまりで、江戸時代は天満別院となり、現在の本堂に建て替えたのが昭和50年くらいだそうです。
宝物としてある親鸞聖人直筆の大経三願文や鎌倉期の釈迦十六善伸像は、京都や奈良の国立博物館に預けられているそうです。本堂の庭には大きなソテツがあります。一度見せてもらえるといいですね。
そして、姫島住民は慈雲寺を「東の寺」と呼んでいました。

次に遍満寺(姫島4-8-1)に行きました。遍満寺は戦争で天子堂だけが焼け残って、本堂などは立て替えられました。しかし、戦争中金属類回収令で持っていかれそうになった本像(釈迦如来像)を前の住職の力で守り今も本堂におかれています。
また、この寺では8月1日から31日まで、朝6時~6時30分に「朝の会」を開いており子どもと大人が70~80人集まって来られるそうです。
そして、姫島住民は遍満寺を「西の寺」と呼んでいます。

また、戦前からこの2つの寺は、西成郡第5区の第3番校(慈雲寺)と第4番校(遍満寺)としてお寺の本堂で学習をしており、これが大阪市立姫島小学校の前身と言われています。

次回は、この続きである姫島神社から緑陰道路へと進みます。


慈雲寺「東の寺」


遍満寺「西の寺」